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日本人の物語01257【室町/義満期】応永の乱 義弘敗死

『応永記』という軍記物語に沿って解説しております。本当にどの戦いにも軍記物語が書かれているものですね。

 堺城で再度の決戦が行われたのは、応永6(1399)年12月21日のことでした。吹き荒れる大風に乗じて幕府軍は周囲の櫓から次々と火矢を射かけ、城は炎に包まれました。
 乱戦のさなか、義弘家臣の陶弘長(すえひろなが)は
「既に味方が多く討たれ、敗色濃厚です。舟で外に逃れ、再起を図りましょう」
と薦めましたが、義弘はこれを拒絶し、
「最後まで戦い、武名を後世に残す」
と言って敵軍に突撃していきました。
 義弘は斯波義将・義種軍に斬りかかっていき、北から南へと走り抜けました。傷を負いながらも敵を次々となぎ倒していきます。
 斯波軍を通り過ぎた次にあったのが、畠山満家の軍でした。満家は相手が大将・義弘だと分かるや200騎で討ち取りにかかりましたが、死人の山が築かれただけでした。このとき、義弘方にいた和泉の国人たちがにわかに寝返り、義弘に斬ってかかろうとしましたが、激怒した義弘が
「日本一の甲斐無しども、一人も逃すまいぞ」
と長太刀を振るうと皆おそれをなして逃げ始めました。
 義弘はさらに満家目指して斬りかかりますが、徐々に周囲の兵が討たれ、遂に一騎になりました。義弘はたった一騎で
「天下無双の大内左京権大夫を討ち取って、御所のお目にかけよ」
と叫ぶや満家に飛び掛かり、遂に討たれました。
 義弘戦死の報を聞いた弟・大内弘茂は切腹しようとしますが、平井道助に説得されて思いとどまり、投降しました。
 12月23日に義満は京に凱旋し、応永の乱は終結しました。鎌倉から京に向かっていた足利満兼は、義弘敗死の報を聞いて鎌倉に帰還し、そのまま遊行寺(神奈川県藤沢市)で謹慎して幕府に謝罪しました。
 大内義弘に代わって弟の弘茂が周防・長門守護に任命され、義弘から取り上げた紀伊・和泉の2ヶ国については、紀伊が畠山基国に、和泉が仁木義員(にっきよしかず)に、それぞれ与えられました。これで管領・畠山基国は越中・河内・能登・紀伊の4ヶ国を得たことになります。
 堺城での籠城に加わっていた弘茂がそのまま周防・長門守護に任命されたのは実に意外です。恐らく義弘の弟・盛見がなおも周防・長門に立て籠もって抵抗を続けていたため(後述)、その鎮圧のために大内家の力を借りるほかなかったのでしょう。このように義弘は討伐されたものの、大内家自体はその勢力を半分に削がれただけで生き残ることができたのです。

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