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日本人の物語01234【南北朝最末期】後小松、100代天皇となる

現代からみると「第100代」というキリ番ゲットではありますが、当時の数え方とは微妙に異なるので、後小松天皇本人が自らを第何代と捉えていたかは分かりません。当時は神功皇后をカウントし、弘文天皇・仲恭天皇をカウントしないはずですし、また南北朝のどちらをどうカウントするのが自然だったかも分からないですし。

 元中9/明徳3(1392)年10月25日。北朝方は後亀山天皇を迎えるため、大内義弘と駕籠の運び手45名を吉野に送り込みました。
 10月28日、後亀山天皇は三種の神器を携えて吉野を出発しました。兄の長慶上皇が一緒に上洛した形跡がみられないので、恐らく上皇は合体に納得せずどこかに出奔したものと思われます。
 閏10月2日、後亀山天皇は嵯峨の大覚寺に入りました。行列は60人にも満たない寂しいものだったといいます。やはり南朝方は財政破綻し、行列を整えるだけの人数も確保できなかったのでしょう。
 閏10月5日、日野資教(ひのすけのり)ら北朝側の公家が大覚寺に赴き、三種の神器を受け取って土御門東洞院の北朝の内裏へと運びました。本来、講和条件では「譲国の儀」を行った上で神器を引き渡すとの約束になっていましたが、そのような儀式は特段行われませんでした。
 現在は、南朝方を正統とみなして北朝方は歴代天皇に加えないこととなっています。南朝3代の長慶天皇が第98代、南朝4代の後亀山天皇が第99代であり、北朝初代光厳天皇から5代後円融天皇までは歴代に数えず、北朝6代後小松天皇が後亀山から譲位を受けて第100代に即位したとみなすのです。後小松天皇は永徳2(1382)年に北朝6代天皇として即位したわけですがそれは無効扱いとなり、明徳3(1392)年に今度は第100代天皇として改めて即位したというわけです。
 譲位を終えた後亀山天皇は出家して大覚寺に住み、「大覚院」ではなく「大覚寺殿」と呼ばれました。つまり上皇待遇を得られなかったのです。
 合体の3条件のうち、1点目の譲国の儀は行われず、2点目の「今後は両統交互に即位する」も履行されませんでした。詳しくは後述しますが、後小松天皇の次もずっと持明院統が即位し続けることとなります。とはいえ義満がたびたび後亀山に気を遣って訪問していた形跡がありますし、2点目が反故にされたのは義満が死去した後の話なので、義満自身は約束を履行するつもりがあったのかもしれません。
 3点目の荘園の分け前については一部履行されましたが、南朝方の分け前は不当に少ないものとなりました。
 後亀山天皇はいわば騙されて三種の神器を北朝に渡してしまったわけですが、この10年後の応永9(1402)年3月に、吉田兼敦に
「自分が合体に踏み切ったのは長年の争いをやめ、民の憂いを除くためだった」
と語っています。動乱を終わらせるためなら、騙されてもよいと思っていたかもしれません。
 後亀山は義満の死後、幕府への不満から吉野に戻っています。義満亡き後の幕府には居場所がなかったのでしょう。

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