日本人の物語00153【古墳】28代宣化天皇
安閑天皇の次に即位したのが、継体天皇の第2子・第28代宣化天皇(467~539)です。宣化天皇についても、安閑天皇と同様に何らの事績がありません。宣化天皇4(539)年2月10日に崩御したとだけ記されています。
記紀によると、安閑・宣化に続き、欽明天皇元(539)年12月5日に継体天皇の嫡子・第29代欽明天皇(509~571)が即位したとのことです。古事記には宣化天皇の子がいたことが記されているのですが、なぜかその子が即位することはなく、皇位は弟へと継承されたのです。
一体、安閑・宣化の2人の天皇は何者なのでしょうか。なぜ事績が記されていないのでしょうか。その謎を解くヒントが2つあります。
1つ目は、『元興寺縁起』『上宮聖徳法王帝説』という2つの文献では、欽明天皇の即位年は辛亥の年(531年)となっており、日本書紀の539年とずれていることです。もし欽明天皇が531年に即位したのなら、継体天皇の死後すぐに即位したことになります。安閑・宣化天皇の治世は一年に満たないほんの一瞬の出来事だったのでしょうか。
2つ目は、仏教伝来のエピソードです。百済の聖明王から仏像が送られて来て、欽明天皇が受け入れるべきか否か迷うという話が載っているのですが、この仏教伝来の年号は、
・日本書紀では552年
・元興寺縁起と上宮聖徳法王帝説では538年
と大幅にずれているのです。538年ならば欽明天皇在位中ではないため矛盾が生じます。
歴史学者の喜田貞吉(きたさだきち:1871~1939)は、このような推論を述べています。
「継体天皇の死後、欽明天皇が即位したが、それに反発する長子が安閑天皇として即位し、2人の天皇が同時に在位した。安閑天皇の死後は宣化天皇がそれを引き継いだ」
つまり、2つの王朝が同時に存在したというのです。「安閑・宣化」という王朝と「欽明」という王朝とが対立していたわけですね。これらをひとまとめに描き出すために、日本書紀は「安閑→宣化→欽明」という一続きのストーリーを捏造し、その結果、欽明天皇の即位年や仏教伝来の年号を偽らざるを得なくなったというわけです。
そういえば、安閑・宣化天皇の母親は、地方豪族出身の尾張目子媛(おわりのめのこひめ)なのに対し、欽明天皇の母親は手白香皇女(たしらかのひめみこ)といって仁賢天皇の娘に当たります。母の血筋が良いために三男である欽明天皇が即位したものの、それより年上だった安閑・宣化が反発した……というのは、ストーリーとして自然なように思われますね。
真相は分かりませんが、喜田説はそこそこ多くの学者に支持されている学説のようです。
