見出し画像

日本人の物語01119【南北朝後期】康安の政変 清氏VS道誉

「頓宮」と書いて「はやみ」と読む。なかなか難しいですね。

 仁木義長に続き、今度は室町幕府ナンバー2たる執事・細川清氏が幕府を離反する「康安の政変」が起こります。その原因は、佐々木道誉との確執にありました。
 清氏が道誉を恨んだ原因は2つあります。
〇備前国福岡荘(岡山県瀬戸内市)は元々は頓宮四郎左衛門(はやみしろうざえもん)の所領だったが、頓宮にさほどの軍功がなかったため、赤松則祐の所領に切り替わることとなった。その後、頓宮が細川軍の将の一人として手柄を立てたので、清氏は頓宮に肩入れして恩賞を申請した。しかし赤松則祐は道誉の娘婿だったので、道誉は福岡荘の権利を頓宮に戻さぬよう幕府の採決に介入した。これにより頓宮は恩賞を得ることができなかった。
〇七夕の夜、将軍義詮が清氏の館を訪問して歌合をする予定になっていた。清氏はご馳走を準備して待っていたが、道誉が同じ日に豪華な茶会を催すといって義詮を呼んだので、義詮は「歌合は後日でもよいだろう。道誉の茶会は非常に珍しい茶器を飾っているようだから」といって、道誉を訪ねてしまった。
 1点目は道誉による清氏への嫌がらせと評価できるかどうか微妙な話ですね。この時代、家臣や同盟相手の利益を勝ち取るために運動することは当然だったでしょうし、よく起こり得る話だと思います。
 2点目は義詮が完全に悪いですね。しかし清氏の恨みは将軍よりも道誉に向いてしまったようです。義詮は幕府高官の間で対立が生じないよう気を付けて振る舞う必要があったでしょう。
 逆に、道誉が清氏を恨んだ原因も2つあります。加賀守護の件と摂津守護の件です。
〇加賀国の守護職は、富樫氏春(とがしうじはる)が建武期からずっと一度も替わることがなく務めていたが、その氏春が死去した際、息子の昌家(まさいえ:?~1387)がまだ幼いことから、道誉が自分の娘婿・斯波氏頼(しばうじより)を加賀守護に就任させようと画策した。これを知った細川清氏は道誉の企みを阻止し、自らが昌家の後見人となることで昌家を加賀守護として擁立した。
〇道誉は摂津守護・赤松光範(あかまつみつのり:1320~1381)を解任してその後任に自分の孫の京極秀詮(きょうごくひであき:?~1361)を据えるべく運動していたが、清氏は赤松の味方をしてこの運動を妨害した。
 いずれも、土地の所有権をめぐる勢力争いの一環ですね。
 こうした問題が積み重なって、細川清氏と佐々木道誉の対立はエスカレートしてしまったのでした。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集