見出し画像

日本人の物語01139【南北朝後期】山名勢再起 厭戦気分

戦国について詳しい人と話すと十中八九は「信長の野望」をプレイしている人です。ゲームの影響力はすごいなあと思いつつ、今更ゲームを新たに始める気にもなれず、本ばかり読んでます。

 これまた、畠山討伐と並行して起こっていた出来事です。
 正平17/康安2(1362)年6月3日。領国の伯耆国にいた南朝方・山名時氏が5千騎を①備前②備中③備後④但馬に派遣しました。まず①~③の動向を見ていきましょう。
 ①備前
 山名軍の主力軍は備前に向かう2千騎です。当然、備前守護の赤松則祐や備中守護の細川頼之が対応しなければなりませんが、赤松は播磨、細川は讃岐にいて指揮を執れず、備前・備中の兵たちは「そのうち本軍が来てくれるだろう」と考え、自ら戦おうという意志がないようです。しばらくにらみ合いが続くこととなりました。
 ②備中
 山名軍の別の一隊は、多治目備中守(たじめびっちゅうのかみ)が大将を務めるもので、備中国新見(岡山県新見市)に向かいましたが、ここでは備中守護軍が戦いもせず備前の徳倉城(岡山県岡山市)に逃亡したので、首尾よく守護所を占領できました。
 ③但馬
 但馬国へは、山名師義ら2千騎が進軍しましたが、北朝方の但馬守護・仁木頼勝が立て籠もる城がなかなか落ちません。師義はこの城を放置して播磨に出向こうとしましたが、家臣たちに反対されてしまいます。
「それなら小林右京亮(山名家執事:01066回参照)の軍勢だけでも播磨へ派遣しよう」
と議論していたところに、北朝方の赤松直頼がやって来て大山(だいせん:鳥取県大山町)に城を構えたので、播磨への道は閉ざされてしまいました。山名勢はやむなく丹波へ向かいます。
 このときの丹波守護は仁木義尹(にっきよしただ)です。仁木といえば義長が反逆して南朝方になってしまいましたが、義尹は頼章の子であり義長とはむしろ険悪で、現在も北朝方です。
 義詮は丹波に山名勢が攻めて来たと知ると、仁木義尹への援軍として今川了俊を送り込みました。今川軍が来ると知った兵たちは北朝方への参加を表明し、丹波篠村(京都府亀岡市)の北朝方の軍勢はみるみる増えていきました。一方の山名勢は僅か700騎で、とても戦えそうにありません。
 圧倒的に北朝方が有利なはずの状況ですが、小林右京亮の軍勢は討ち死に覚悟の強者揃いだと聞いて、北朝方の兵はひどく恐れました。そのうち、山名勢が食糧不足を理由に伯耆に帰っていったと聞いた北朝方の一同は胸をなでおろし、
「見事に敵を追い払いました」
と得意げに報告したといいます。
 備前も備後も但馬も、いずれの幕府軍も戦意が不十分ですね。全国的に厭戦気分が蔓延していたのかもしれません。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集