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日本人の物語01282【室町/義持期】義持は父嫌いか

足利義持というと、私が子供の頃読んだ「小学館版少年少女まんが日本の歴史」では少し頑固で神経質そうな顔をしていました。歴史上の人物って、どうも大河ドラマや漫画のイメージに引きずられてしまいますね。

 応永15(1408)年6月7日。義持は室町第から北山第に移りました。
 これまで将軍義持が室町第に、最高権力者たる前将軍義満が次男義嗣とともに北山第に、それぞれ居住していたため、公卿らはみな北山第に伺いを立てに行っていました。義満が死去した今となっては、北山第にいる義嗣があたかも後継者のように見えてしまい、何かと目障りです。義持は自ら北山第に住み始め、義嗣を生母・春日局(かすがのつぼね:江戸時代の有名な春日局とは別人)の里邸に移らせました。
 6月25日。等持院で義満の中陰(四十九日)の仏事が行われました。このとき使われたのが土佐行広(とさゆきひろ)の描いた足利義満像です。剃髪し、僧綱襟(そうごうえり)の衣を身につけ、肩には横披(おうひ)と袈裟をかけ、手に檜扇(ひおうぎ)と数珠を持った姿です。今や義満といえばこの絵が最も有名でしょう。
 人物画には、その人物の事績を褒めるための「賛文」と呼ばれる文章が付け加えられます。この義満像には、義持が書いた賛文が載っているのですが、これが北宋の皇帝・徽宗(きそう:1082~1135)の三回忌に大慧宗杲(だいえそうこう:1089~1163)が行った説法を引用したものなのです。徽宗は書家・画家として有名ではあるものの、政治的には無能な人物でしたから、この賛文には義持の父に対する屈折した思いが反映されている可能性があります。
 このように、義持は父の業績を否定し、父が可愛がっていた弟を凋落させようと画策しているかに見えます。7月13日には側近の山科教高(やましなのりたか:?~1418)を義嗣に奉公させるべく送り込みましたが、これも義嗣を重視してのことか、はたまた監視しようとしてのことか分かりません。まあ山科教高は義嗣に忠義を尽くすこととなるので、監視が目的だとしたら人選の失敗だったということになりますが。
 同じ7月には、大和国で国人・筒井順覚(つついじゅんかく:?~1422)と後南朝方・箸尾為妙(はしおいみょう)の合戦が始まりました。この両者は以前から何度か合戦しており、大和を治める興福寺が国人たちを制御する力を失っていることが窺えます。
 この合戦に対して、義持はまたもや父の仕事を否定する態度を取りました。義満はかつて筒井を支援して箸尾を罰する決定をしたのですが、義持は逆に箸尾を支援して筒井を退治する旨を決定したのです。
 この義持の決定には、筒井と親しい赤松義則が大いに反発し、筒井を支援し始めました。最終的には筒井方が兵を退かせて大規模な合戦は避けられたのですが、義持の「父嫌い」という性格の危うさが浮き彫りになった事件でした。

暑すぎて、しばらく史跡巡りには行けなさそうです。今は戦国時代の下書きを書いているので、できれば全国の関連史跡を巡りたいのですがね。

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