日本人の物語01079【南北朝中期】第六次京都合戦 東寺仏舎利
全世界の仏舎利を集めるとどのくらいの量になるのか、誰か検証してほしいものです。
那須資藤の討ち死にによって南朝方が勢い付いてしまいましたが、幕府方はさらに六角氏頼と細川清氏らを七条大宮に派遣し、入れ替わりながら戦います。清氏は軽傷をいくつも負いながらも南朝方を攻め破り、遂に南朝方は細川軍を恐れて東寺から外に出て来なくなりました。
細川清氏がこれだけ頑張っているのに、執事である仁木頼章は嵐山のあたりからひたすら戦いを眺めているだけで、桂川を越えることすらしませんでした。これは後に細川と仁木が対立する伏線となります。
東寺に陣を置く直冬軍は、初めのうちは尊氏軍と対等に戦っているように見えましたが、やがて兵糧が不足してきました。それもそのはず、
・山陰道は仁木頼章の軍勢に
・山陽道は足利義詮の軍勢に
・東海道・北陸道は足利尊氏の軍勢に
それぞれ塞がれているわけですから、兵糧は河内路から補給するしかありません。僅か1ルートしか残されていないわけですから、当然補給が足りなくなってきます。
正平10/文和4(1355)年3月13日夜。遂に直冬は東寺・淀・鳥羽に布いていた陣を退き払って、八幡へと逃げていきました。
東寺が陥落した直後の有名なエピソードがあります。尊氏が戦勝の記念として、東寺にある仏舎利(ぶっしゃり)を一粒だけもらってくるよう、清氏に命じた話です。
仏舎利とは釈迦の遺骨のことで、空海が唐から80粒を持ち帰ったといわれています。それが平安時代にはなぜか4800粒にまで膨れ上がりました。そもそも世界各国に散らばる仏舎利を全て集めるととんでもない量になるらしく、「釈迦の体重は数トンあったのか」などと揶揄されることもあります。
命を受けた清氏は、東寺に赴き仏舎利を所望しますが、東寺の宝蔵の鍵が戦乱の中で消失してしまい、開けられません。清氏は家臣たちに
「槌で扉を壊せ」
と指示して、扉をぶち破って仏舎利を一粒持ち帰ってしまいました。
この東寺仏舎利事件は太平記の創作ではなく、史実です。洞院公賢の日記『園太暦』では、公家たちがこの事件について「驚くべきことだ」と噂したことが書かれています。
細川清氏がかくも豪快なキャラクターだったことは、今後のために記憶に留めていただく価値があるでしょう。
