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日本人の物語01278【室町/義満期】義満死す

義満の死はタイミングが良すぎるということで、暗殺説もあるようです。しかし誰が暗殺を企図したかというと、いまいち具体的な候補者がいないんですよね・・・。

 義嗣を昇進させた義満の真意はどこにあったのか気になるところですが、それは永遠の謎となってしまいます。というのも、愛する義嗣の元服式から僅か2週間後の応永15(1408)年5月6日、義満は急死してしまうのです。
 元服式の時点では、義満の健康状況がそこまで悪化していたという話はありません。ただ、山科教言の日記『教言卿記』によると、4月28日に教言が義満を訪ねたところ、体調不良を理由に面会できなかったとの記録があるので、この時点で体調を崩していたことは間違いありません。
 義嗣の怒涛の昇進は、体調悪化を自覚していた義満があまりに事を急いだためと考えれば納得できますが、そもそも義満はわがままで短気なワンマン宰相なので、健康云々に関係なく事を急ぎそうな気もします。
 義満が死去したその日のうちに、朝廷から義持のもとに
「義満に太上天皇の尊号を追贈する」
との連絡が来ました。あれほど義満の尊号を嫌がっていた公卿たちでしたが、「死後に名乗る分には良いだろう」ということで、幕府に多少気を利かせたのでしょう。
 ところが義持は、これを即日のうちに辞退しました。皇位簒奪計画の真偽のほどはともかく、義満が上皇待遇を熱望していたのは間違いない事実なのに、その夢は嫡男義持には共有されていなかったのです。
 義持が辞退を決めたのは、斯波義将の意見具申によるものだったといいます。斯波義将は室町前期を代表する管領であり、実力者ですが、義将と義満との関係は一定の緊張をはらんだものでした。かつて義満が最も信頼していた細川頼之を追放したのも義将ですし、その後も何かと幕府の内紛(細川派と斯波派の対立)の最前線に位置していました。
 義満は元々は細川派の味方のはずでしたが、有力守護との結びつきが強い義将を蔑ろにすることはできなかったようです。例えば応永9(1402)年12月、
「鎌倉公方満兼と内通した罪で義将が討たれる」
との噂が洛中を駆け巡ったことがありましたが、義将が息子の義重を使者に立てて義満に弁明すると、義満は義将を咎めるどころか、義将邸を訪れて関係が良好であることを世間にアピールし、火消しに努めました。
 このように、義満ですら無視できなかった実力者・義将が、最後の最後に義満の野望を打ち砕いたのでした。

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