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日本人の物語01292【室町/義持期】北畠満雅の乱

本稿を書くための予習をしていると、「かつては軍記物語を基にこう言われていたが、近年の有力説ではこう」という話が実に多いことに気づきます。昔の歴史学者は、軍記物語と一次史料をあまり区別せずに用いていたようですね。

 応永22(1415)年2月。後南朝の北畠満雅(きたばたけみつまさ:?~1429)が伊勢国阿坂城(あざかじょう:三重県松阪市)で挙兵しました。北畠満雅の乱の始まりです。
 この乱はこれまで、
「南朝方と北朝方が交互に即位する」
という明徳の合一の際の約束を反故にされたことに怒った南朝方が蜂起したものと考えられてきました。ところが近年の研究では、南北朝の争いではなく単なる所領問題が原因との説も有力になってきています。
 北畠氏は明徳の合一後、斯波氏と誼を通じることで室町幕府との関係を保ってきました。ところが斯波義将の死後、斯波氏が幕府内での発言権を失ったことから、徐々に北畠氏の所領を守り抜くことが厳しい状況になってきました。
 そんな中、義持が北畠満雅に対し、
「所領2ヶ所を小原氏に譲れ」
と指示しました。小原氏というのは北畠氏の分家でありながら、徐々に幕府との結びつきを強めて幕府直属の国人となった者たちです。
 こうした要求に対して北畠満雅は所有権を主張して争いますが、係争中であるにもかかわらず小原氏は強硬に所領を収奪しました。さすがに堪忍袋の緒が切れた北畠満雅は挙兵し、小原氏の居城を攻め落としたというわけです。
 以上の経緯からみても、北畠満雅の乱の主たる原因は所領問題でしょう。20年も前に終結した南北朝の争いが今もなおくすぶっている可能性もありますが、直接の原因ではないでしょう。
 満雅の乱を知った義持は、一色義貫を鎮圧軍の大将に据え、京極高数と土岐持益(ときもちます:1406~1474)を付けて送り出しました。ちなみに一色義貫は16歳で、美濃守護・土岐持益に至っては9歳です。父を早くに亡くすと、幼くして大変な重責を背負うことになるのですね。
 鎮圧軍は4月20日頃に雲出川を越え、5月16日までに阿坂城を陥落させるなど、戦いを優位に進めました。しかし6月24日に鎮圧軍はゲリラ戦で兵糧を敵に奪われ、7月には旧楠木一族らの一斉攻撃を受けて退くなど、苦戦を強いられることとなります。
 8月になってから義持は和睦案を示し、10月14日に満雅を赦免すると発表しました。義持は大きな譲歩を強いられたのです。

本稿では、人物名をコロコロ変えると分かりにくくなるため、元服前の段階であっても元服後の名前で説明しています。ただ、戦国時代に入ると「竹千代」とか「吉法師」といったレベルの超有名人については、元服前は幼名で表記するかもしれません。

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