日本人の物語01383【室町/義教期】義教最後の1年
まもなく義教ともお別れです。
実は春王丸・安王丸が斬られた時点で、義教が横死する「嘉吉の乱」まであと1ヶ月に迫っていました。一体なぜ義教は殺されたのかを考えるために、話を前年に巻き戻してみましょう。
永享12(1440)年5月15日。義教は武田信栄(たけだのぶひで:1413~1440)に命じて一色義貫を討たせました。その原因は、
・義貫は4代将軍義持に重用されていたことを傘に着て、義教の右大将拝賀の儀で供奉行列の先頭を希望したが、それが受け入れられず2番目とされたことを不服として当日に病気欠席したこと
・義教は義貫の実子である教親(のりちか:1419~1451)に「教」の一字を与え、側近に取り立てていたが、義貫は義教憎さから教親をも疎み、家督継承を渋ったこと
の2点にあります。
翌5月16日には、義教は側近の長野満藤(ながのみつふじ)に命じて伊勢守護・世保持頼を討たせました。「持頼が日頃から反抗的な態度をとっていたため」とのことですが、具体的にどう反抗的だったのかは分かりません。
続けざまに2人の守護が滅ぼされたわけですが、その領国は次のとおり分けられました。
・若狭守護は一色義貫から武田信栄に
・三河守護は一色義貫から細川持常(ほそかわもちつね:1409~1450)に
・丹後守護は一色義貫から一色教親に
・伊勢守護は世保持頼から一色教親に
ただ、武田信栄は一色義貫を斬った際に義貫家臣の三方忠治(みかたただはる:?~1440)に応戦されて致命傷を負っており、若狭守護に就任から僅か2ヶ月後には死去することとなります。
さらに永享13(1441)年1月29日、畠山家でも家督問題が持ち上がりました。畠山家臣の遊佐国政(ゆさくにまさ)・斎藤祐定(さいとうすけさだ)が当主の畠山持国を廃して、弟の持永(もちなが:?~1441)を当主に据えようとしたのです。
有力守護の権力を削ぎ落としておこうと考えた義教はこのクーデターを認めてしまい、持国は河内国に退去することとなりました。
さらに6月18日には、突如として富樫教家(とがしのりいえ)が義教の勘気を被り、加賀守護を解任されてしまいました。義教は当時醍醐寺の喝食(かつじき:奉公人の一種)となっていた教家の弟を還俗させて泰高(やすたか:1418~?)と名乗らせ、富樫氏の家督と加賀守護職を継がせました。
これまでも義教は多くの家督相続に介入してきましたが、ここ1年の動向は異常です。かくも好き勝手に振る舞ったために、義教はその報いを受けることになるのです。
一色氏といえば元々は愛知県西尾市一色町を拠点とする氏族ですが、この頃には丹後・若狭をメインの領地としていました。それにしても丹後(京都市北部)も若狭(福井県西部)も京からかなり近いのに、いまいち存在感がないですね。天の橋立や三方五湖など観光地はいろいろありますが。
