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日本人の物語00887【建武期】天皇還京 講和の使者

 延元元/建武3(1336)年10月9日。戦況が膠着する中、尊氏は後醍醐天皇に密かに講和の使者を送りました。使者の口上は次のとおりです。
「一昨年の冬、近臣の讒言によって帝のお怒りを受けましたときに、出家して無実を訴えようと思っていたのですが、(新田)義貞や(脇屋)義助がこれにかこつけて日頃の鬱憤を晴らそうとしたために、この乱が天下に広がってしまいました。私は決して帝に対して反逆を企てたのではありません。ただ義貞たちを滅ぼして、今後讒言を行う者を出さないようにしようと考えただけなのです。もし帝が真実をご覧になるならば、私が讒言に遭って陥った無実の罪をお許しください。お供されている公卿たちは、全て元の官位、元の所領に復し、天下の政は公家の皆様にお任せ申し上げます」
 これが事実だとすれば、あまりにも後醍醐天皇に有利な講和条件です。しかし、後醍醐派の公卿らを全て元の官位に復するとなると、光厳上皇が任命した公卿たちはクビになってしまうわけで、とても光厳上皇の承認が得られるとは思えないのですが、どうなのでしょう。
 使者の口上を聞いた後醍醐天皇は、重臣たちに相談もせずすぐに京に戻ると決めました。天皇の返事を聞いた尊氏は、
「帝(後醍醐天皇)を欺くのは簡単だったな」
と笑ったと太平記は述べています。
 しかし、現存する尊氏の願文や書状を見ると、尊氏は心から後醍醐天皇に私淑しているように見受けられるので、尊氏の講和が欺罔だったとは思えません。実際に尊氏が出した講和条件がどんなものだったのかは後で考察することとして、とりあえず物語を進めましょう。
 天皇は、新田義貞にはこのことを一切知らせないまま比叡山を出る準備をしていました。知られたら反対されると思ったためでしょうが、これまで自分のために働いてきた義貞に対してあまりの仕打ちだと思います。
 その日、洞院実世が義貞のもとに使者を派遣して、
「ただ今、帝が京へ戻られる準備をしておられます。ご存知ですか」
と知らせて来ました。義貞は、
「そんなことがあるはずがない。使いの者の聞き違いだろう」
と言って落ち着いていましたが、義貞側近の堀口貞満は聞き終わらないうちに、
「怪しい気がします。私が行って見て来ましょう」
と言って、天皇のもとに馬で駆けて行きました。すると、ちょうど天皇はお供の公卿を連れて出かけようとしているところでした。

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