日本人の物語01542【室町/西国/応仁の乱】戦闘準備
「戦闘準備」みたいな地味な表題だとアクセス数が減ってしまうみたいですが、まあ仕方ありません。
勝元派は雌伏の時を過ごしており、相変わらず宗全一派の天下が続いています。
応仁元(1467)年4月23日。義政・義視・富子が斯波義廉邸を訪問し、酒宴に興じました。畠山政長には討伐令が出ている一方、将軍が弟と正室を引き連れて義廉邸を訪問したわけですから、宗全派の勝利を事実上承認したようなものです。
5月1日には、斯波義廉が「左兵衛佐(武衛)」に任じられました。斯波家の惣領が代々任じられてきた官職であり、斯波家を「武衛家」と称するのはここに由来しています。
この頃から徐々に、アンチ宗全派の者たちが戦闘準備をしているらしいとの噂が洛中に流れ始めました。さらに地方では
・播磨国で北加賀守護・赤松政則が播磨守護・山名宗全を攻撃
・伊勢国で世保政康(よやすまさやす)が伊勢守護・一色義直(いっしきよしなお)を攻撃
・若狭国で若狭守護・武田信賢が丹後守護・一色義直を攻撃
※一色義直は伊勢守護と丹後守護を兼任
といった小競り合いが始まりました。いずれも細川方による山名方への攻撃です。ちなみに、上に掲げた武将本人がその国に在陣しているわけではなく、いずれも京からの遠隔操作による戦闘指揮です。
京での戦闘が始まるのも時間の問題となりました。5月10日になると、周防に在国する大内政弘(おおうちまさひろ:1446~1495)が山名方につくことを約束し、山口を出発して京に向かいました。大内は周防・長門・安芸・石見・筑前・筑後・豊前・伊予の8ヶ国の守護を務める大名であり、それら8ヶ国の兵1万騎と水軍2千艘を含めた計3万人近い兵を率いての参戦です。移動にだいぶ時間がかかって到着は8月となるものの、山名方にとっては大いに励みとなったでしょう。
大内の参戦を知った細川勝元は、その到着前の早期決戦を強いられることとなりました。5月16日には細川家臣の池田充正(いけだみつまさ)が千人余りの兵を率いて摂津から上洛し、戦闘準備に当たりました。ちなみに池田充正は現在の大阪府池田市を拠点とする摂津池田氏の中興の祖で、後に岡山藩主となる美濃池田氏と(平安時代まで遡れば)同族です。
山名方も負けてはいられません。5月13日には畠山義就配下の兵らが東寺で戦闘準備を行い、それを知った洛中の人々は次々と京から避難を始めました。5月20日には山名宗全・畠山義就・一色義直・土岐成頼といった面々が管領・斯波義廉邸で軍議し、更なる兵の募集を行いました。
細川方は京の東側にある将軍御所を本拠として、山名方は西側にある宗全邸を本拠としたため、細川方を東軍、山名方を西軍と称します。
いよいよ東軍16万1500騎、西軍11万6000騎という前代未聞の兵力による市街戦が始まろうとしています。
自分で書いていて「16万対12万で市街戦はやばいな」と感じました。関ヶ原より多いじゃないですか。
