見出し画像

日本人の物語01551【室町/西国/応仁の乱】相国寺合戦

相国寺七重の塔は炎上せずに済んだのですが、多分みんなが遠慮して距離をとりながら戦ったためでしょう。

 応仁元(1467)年10月3日。西軍は、将軍御所に隣接する相国寺に主力2万で襲い掛かりました。このとき相国寺を守っていたのは勝元の猶子である細川勝之(ほそかわかつゆき)・武田信賢・京極持清といった面々で、そこに西軍方の畠山義就・大内政弘・一色義直・朝倉孝景らが攻撃を加えたのです。
 奇襲を受けた東軍方は総崩れとなり、勝之を守ろうと奮闘した細川家臣・安富元綱(やすとみもとつな:?~1467)が戦死するほどの大打撃を受けました。さらに西軍に内通していた僧が相国寺に放火し、寺は七重の塔だけを残してほとんどが焼失してしまいました。
 たまらず東軍方は逃亡し、西軍が相国寺を占領することとなりました。かくも近くに西軍が大挙して布陣したことで、将軍御所は大混乱に陥りました。将軍家に仕える侍女たちは、今にも襲撃されるのではないかと怯え、日野富子は義政に
「一旦若狭か丹波に逃げてはどうか」
と薦めたといいます。
 西軍の襲撃に怯えたのは、後花園法皇と後土御門天皇も同様でした。法皇は9月13日に内裏が占領されたことにも憤っていましたが、今回、隣接する相国寺が占領されたことに相当な衝撃を受けたようです。耐えきれなくなった法皇は遂に山名宗全追討の院宣を下しました。しかし朝廷も幕府も権威低下が著しく、西軍方は将軍名での追討令も法皇名での追討令も一顧だにしません。
 翌10月4日。勝元は家臣の秋庭元明に
「相国寺を取り返すには誰を派遣すればよいだろう」
と相談しました。秋庭が即座に畠山政長の名を答えたため、政長がこの決死の作戦を敢行することとなりました。
 政長は4千人を率いて相国寺に乗り込み、政長自身が前線へと斬り込んでいきました。その結果、政長軍は見事六角軍・一色軍を蹴散らして相国寺を奪回したのです。
 この日の夜、相国寺の陣で浦上が秋庭に「秋庭殿」と声をかけたところ、秋庭は
「私の名を大声で呼ぶでない。敵は私を猪名野で逃げた臆病者だと思っているので、勇んで攻めかかってくるかもしれないではないか」
と注意しました。浦上はこの秋庭の用心深さを褒め称えています。
 2日間に渡る相国寺での合戦を終え、義政は
「はかなくも 猶治まれと 思ふかな かく乱れたる 世をば厭はで」
と詠みました。戦乱の世を嘆く歌ですが、まるで他人事のようです。

なんだか、「治まれと思う」という表現が他人事に聞こえるんですかね。将軍なら自ら鎮圧に赴くとかいろいろ治める方法があると思うのですが。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集