日本人の物語00731【鎌倉後期】正中の変 あり得ない開き直り
倒幕計画が露見してしまったものの、後醍醐天皇はあくまで無実を主張します。
花園天皇の日記によると、後醍醐天皇が幕府に書き送った手紙には
「もし幕府転覆を企てた者がいるのならば、徹底的に真相を究明し、責任者を処罰すべきだ」
と記されていたといいます。謝罪文ではなく命令文だったというわけで、あり得ない開き直り方です。花園上皇は日記に
「まるで狂人ではないか」
と呆れ返った気持ちを記しています。
後醍醐天皇の弁明は見え透いていたものの、蝦夷の安藤氏の内紛で揉めていた幕府はこれ以上の火種を抱えたくないと考えたらしく、穏便に事を運ぼうとします。
「日野資朝・俊基は引き続き取り調べるが、帝を罰するつもりはない」
と回答したのです。甘いですね。
元亨4(1324)年10月23日、「帝は咎めない」という朗報を持って帰洛した万里小路宣房は、二階級特進して権大納言となりました。翌正中2(1325)年2月7日に
「資朝は佐渡に流罪。俊基は釈放」
との決定がなされ、天皇側近からの死罪は一人も出さずに済みました。
後世の創作ですが、太平記にはこんな記述があります。後醍醐天皇は身の潔白を訴えるため「告文」を鎌倉に送ったのですが、それを北条高時が開こうとすると、政所執事の二階堂道蘊(にかいどうどううん:1267~1335)が
「帝の告文は披見すべきではありません」
と進言します。高時はそれを無視して斎藤利行に開封させたところ、利行は鼻血を出し、7日後に血を吐いて死んだといいます。これに驚いた高時は帝を不問にしたというのです。
実際には斎藤利行の没年はこの2年後なので、明らかに史実ではありません。
こうして元亨4(1324)年9月に起こった倒幕計画はこうして失敗に終わりました。
元亨4(1324)年が「正中」に改元されるのは12月のことなので、本来は「元亨の変」と名付けるべき事件なのですが、「正中の変」と呼ばれています。
余談ですが、近年の研究においては、
「後醍醐天皇の二度目の倒幕計画(元弘の乱)は事実だが、一度目の倒幕計画(正中の変)は濡れ衣だったのではないか」
との説も有力視されているようです。むしろ、濡れ衣を着せられたことで後醍醐天皇が幕府に不信感を持ち、真剣に倒幕を考え始めたというわけです。
そうだとしたら、あのあり得ない開き直りも納得がいきますね。
