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日本人の物語00197【飛鳥】40代天武天皇

 近江の弘文天皇の政権を滅ぼした大海人皇子は、天武天皇2(673)年2月27日、満を持して天皇に即位しました。天武天皇です。
 天武天皇はまず、都を飛鳥に戻しました。飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)といいます。そして3月1日に、壬申の乱で功のあった者に勲位を授けました。
 さらに5月1日、「新たに朝廷に仕える者は、家柄に関係なく最初は大舎人から始め、能力のある者を昇進させる」と発表し、身分の低い小豪族にも出世の道を開いたのです。天智天皇が豪族の意向を無視して反発を招いたことから学び、今度は豪族の要望を受け入れる形で政策を進めているのが分かります。
 しかし、天武天皇は豪族におもねるばかりではありませんでした。天武天皇4(675)年2月15日には、「天智天皇3(664)年に認めた部曲(かきべ:私有民のこと)を廃止する」旨を発表し、豪族の私有民を一部禁止したのです。飴と鞭を使い分けながら、豪族を上手くコントロールしている様子が窺えます。なかなかの政治的手腕です。
 天武天皇7(678)年4月7日。天武天皇の娘で、弘文天皇に嫁いでいた十市皇女が死去しました。このとき、天武天皇は声をあげて泣いたと記録されています。父の命で弘文天皇に嫁いだものの、父と夫が内乱を起こし、夫を殺され、その後誰にも再嫁することなく死んでいった悲劇の皇女です。ちなみに、天武天皇の長男である高市皇子は十市皇女に対する熱烈な恋歌を詠んでおり、高市皇子にとって弘文天皇は恋敵ということになります。壬申の乱の一幕として、十市皇女をめぐる三角関係という背景もあったかもしれません。(漫画『天上の虹』はそのような設定で描かれています。)
 さて、天武天皇8(679)年5月6日、天武天皇と皇后・鵜野讃良皇女が吉野へ行幸しました。その際、同行した6名
・草壁皇子(天武天皇の次男)
・大津皇子(天武天皇の三男)
・高市皇子(天武天皇の長男)
・忍壁皇子(おさかべのみこ:天武天皇の四男:後に刑部親王と呼ばれる:?~705)
・川島皇子(かわしまのみこ:天智天皇の次男:657~691)
・志貴皇子(しきのみこ:天智天皇の七男:?~716)
が、草壁皇子を次期天皇とすることを誓約しました。これを「吉野の盟約」といいます。天武天皇には男子が大勢いますが、皇后・鵜野讃良皇女が産んだのは草壁皇子だけですから、その草壁皇子が後継者に選ばれるのは当然の流れでしょう。
 天武天皇の長男・高市皇子は壬申の乱で最も功績があったのですが、母の身分が低いせいで、後継者になれなかったのですね。一方、大津皇子は才覚もすぐれ、母が故・大田皇女(天智天皇の娘)であるため、後継者候補として申し分ありませんでしたが、鵜野讃良皇女が自らの子である草壁皇子を推したため、皇太子の座を逃したものと考えられます。

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