日本人の物語01689【戦国/東国/長享の乱】諏訪 上社と下社の内紛
この連載も徐々に難易度が上がり、詳しくないと読みこなせない内容になってきている気がします。「小笠原といえば信濃守護だよな」くらい分かる方でないとついていけないですよね。
ここで少し時間をさかのぼり、長らく言及して来なかった信濃国に目を向けてみましょう。
信濃守護の小笠原氏が
・府中(長野県松本市)を拠点とする府中小笠原家(長将→持長→清宗)
・松尾(長野県飯田市)を拠点とする松尾小笠原家(長秀→政康→宗康→光康)
・鈴岡(長野県飯田市)を拠点とする鈴岡小笠原家(政秀)
の3家に分かれた経緯については既に述べました(01509回参照)。復習しますと、
①元々、小笠原家の嫡流は長将だったが、結城合戦で戦死したため、家督は長将の弟である長秀、さらにその弟の政康、その子の宗康へと引き継がれた。長将の子・持長は「本来の嫡流は自分だ」と考え不満を持った。こうして小笠原家は府中城の持長と松尾城の宗康に分裂してしまった。
②漆田原の戦いで持長が宗康を討った。
③宗康の家督と松尾城主の座を弟の光康が継いでしまったため、不満を持った宗康の子・政秀は鈴岡城に入り、松尾城と対立した。
という流れでしたね。
この小笠原家の分裂が影響し、南信濃で絶大な勢力を誇る諏訪大社もまた、二派に分裂することとなりました。そもそも諏訪大社は12世紀頃から「上社(かみやしろ)」「下社(しもやしろ)」に分かれていたのですが、それぞれの社が小笠原家の別派閥に属して対立するようになってしまったのです。対立構図をまとめると次のとおりです。
【上社】大祝は諏方氏 現在の長野県諏訪市 松尾小笠原家を支援
【下社】大祝は金刺氏 現在の長野県下諏訪町 府中小笠原家を支援
(諏訪大社では最高位の神官のことを「大祝(おおほうり)」と呼びます。)
上社と下社の対立は激化していき、文明12(1480)年2月6日には、下社の大祝・金刺興春(かなさしおきはる:?~1483)の手の者12名が上社の領地である大町大橋詰(長野県茅野市)で放火略奪を行い、多数の死傷者を出す事件まで起こりました。
翌3月5日には、下社によるテロの余韻さめやらぬ中、上社で「小坂御頭祭」という定例祭が行われました。しかしこの日にも下社の手の者が放火を行い、上社前宮に集まっていた人々が逃げ惑って将棋倒しとなり、鳥居付近では踏み殺された死体が積み重なったといいます。
幕府も守護も500年のうちに消えてなくなったのに、なぜか神社と寺院だけは今も存続しているのは不思議ですね。当たり前ですが諏訪大社は今もあります。
