日本人の物語01380【室町/義教期】結城合戦 籠城戦
結城氏朝はなかなかの戦上手のようです。
永享12(1440)年7月29日、10万もの幕府軍が結城城を包囲し一斉攻撃が始まりました。しかし結城城は平城であるにもかかわらず難攻不落で、なかなか陥落しません。というのも、結城城は外郭を流れる川を利用した天然の堀がある上、氏朝が時間をかけて籠城用に改築していたのです。
さらに、氏朝は2万人ほどの兵力をあえて分散させ、古河城に野田氏行(のだうじゆき)、関宿城(千葉県野田市)に矢部氏種(やべうじたね)を配置していました。幕府軍からみると、結城城を攻めている間に後方の古河城・関宿城から狙い撃ちされるおそれがあるわけで、これも上手く総攻撃が進まない理由でした。
9月になっても結城城は落ちず、苛立った将軍義教は意外な命令を出しました。
「大軍で包囲し、兵糧攻めにせよ」
というのです。気の短い義教にしては慎重な作戦です。
10月20日には幕府方の岩松家純(いわまついえずみ:1409~1494)が、籠城中の山川氏義(やまかわうじよし)に密書を送り、寝返りを誘いました。山川氏義は
「結城城をくれるなら寝返ろう」
といって城を脱出しましたが、幕府方からは囚人同様に扱われ周囲に嘲笑されました。
とはいえ、この氏義の裏切りは結城方にとっては手痛いものでした。士気は落ちこみ、食糧の備蓄も減っていきます。
もう良いだろうということで、11月に義教は総攻撃を指示しました。ところが現場の幕府軍の士気は低く、なかなか動こうとしません。そうこうするうち、永享13(1441)年1月1日に下総結城氏朝の方から城を討って出てきました。食糧が底をつき、いちかばちかの戦いに賭けたのでしょう。丸一日合戦するも、決着はつきません。
同じ頃、持氏と組んで反乱を企てていた大覚寺義昭が日向に逃亡しているとの情報も入りました。当時日向・薩摩守護の職は島津久豊から子の忠国(ただくに:1403~1470)に引き継がれていましたが、その忠国が幕府の命を受け、嘉吉元(1441)年3月13日に義昭の潜伏先の櫛間永徳寺(宮崎県串間市)を急襲し、自害に追い込みました。
義昭の方はすぐに片が付きましたが、結城合戦の方の戦局はまるで動きません。
4月15日になって現地幕府軍の大将・山内上杉清方は
「日本の兵力の半分が集結しているのに、数ヶ月もの間、落とせずにいるのは恥辱である。明日、総攻撃をかけよう」
と宣言します。「日本の兵力の半分」とは大袈裟な気もしますが、確かに大軍がいるくせに攻めあぐねているわけで、面目がありません。ようやく攻撃が始まろうとしています。
茨城県結城市で起こっている戦闘に、京都にいる将軍が指揮を執るというのはずいぶん気の長い話ですよね。
