日本人の物語00439【平安後期】鹿ヶ谷の陰謀 多田行綱裏切る
清盛は後白河法皇と結びつくことで権力を得ました。一方、後白河法皇は清盛を手なづけてその武力を使うことで、権力を行使しました。この両者の関係は、ある段階までは両者ともに利益の得られるものだったと思われます。
しかし、清盛の権力は後白河の想定を超えてしまい、後白河は清盛を牽制するようになります。
両者の危うい関係を上手く成り立たせていたのは、平時子の妹・建春門院滋子でした。平家一門の娘であり、後白河が寵愛する滋子がいたからこそ、清盛と後白河は敵対心を露骨に表明することなくやって来れたのでした。しかし安元2(1176)年7月8日、建春門院滋子が34歳で死去してしまい、もはや両雄の対決は避けられなくなりました。
滋子の死の翌年、早速事件は起こりました。
安元3(1177)年5月。後白河の近臣たちが俊寛(しゅんかん:1143〜1179)の保有する鹿ヶ谷(ししがだに)山荘で平家打倒を謀議し始めました。このとき参加したメンバーの中には、元々信西の側近であった西光や、藤原信頼とも近しかった藤原成親らがいました。
彼らは平家打倒を計画したはずなのですが、この計画というのがどうも緊張感のない宴だったようです。成親が立ち上がったときに、酒の入った瓶子(へいし)が倒れ、
「おや、平氏が倒れた」
と誰かが言うと皆が笑い転げました。西光がさらに
「ついでに首も落とせ」
と言って瓶子の首を折ると、一同はわっと盛り上がったというのです。そして『平家物語』は、なんとこの会合に後白河法皇までもが参加していたと伝えています。
ただし、この陰謀自体、平家がでっち上げた虚構だという説もあります。場の盛り上がり方を見ると、どうもクーデター計画というよりも単に愚痴や悪口を言っていただけの集会のように見え、故意に誇張された可能性もあります。
とはいえ、この集会は平家打倒の決起集会であると捉えられることとなりました。5月29日の深夜、この集会に参加していた多田行綱(ただゆきつな)が、突然六波羅に現れます。
平家の家人に対し、多田行綱は
「清盛様に直接お伝えしたいので、目通りを頼みたい」
と言います。
普段は来ない客が不意に深夜に訪ねてきたと聞いて、清盛は訝りながらもこれに面会します。そこで、多田行綱はこの鹿ヶ谷山荘での会合について詳しく報告したのです。清盛は激怒して、早速兵を繰り出して西光、藤原成親、俊寛らを逮捕しに向かわせます。
