日本人の物語01103【南北朝中期】興良親王の裏切り
北朝方から南朝方に寝返る人が続出していますが、珍しいその逆のパターンが登場します。しかも大物です。
四条隆俊が龍門山の戦いに敗れたとの知らせを受け、興良親王が
「いよいよ私が出向いて合戦をしましょう」
と言い出しました。興良親王は後醍醐天皇の孫にして征夷大将軍に任命されたこともある人物です。かつて北畠親房とともに常陸国小田城(茨城県つくば市)に立て籠もっていましたが、常陸国の南朝勢が敗北したことを受けて、畿内に戻ってきていたのでしたね(01029回参照)。
ちょうど吉野には赤松氏範がやって来ていました。赤松家といえば、則祐が北朝方に寝返ってしまいましたが、弟の氏範は今もなお南朝方の武将です。正平15/延文5(1360)年4月、後村上天皇は興良親王に赤松氏範を付けて送り出しました。
ところがここで大番狂わせが起こります。興良親王は義詮に対して密使を送り
「私は南朝を裏切って賀名生を滅ぼすことにしたので、幕府に吉野支配を承認してもらいたい」
と言ってきたのです。これほどの重要人物がまさかの寝返りです。
義詮がどう回答したのか史料が残っていませんが、4月25日、興良親王は赤松氏範とともに賀名生の奥地にある銀嵩(ぎんこう:現在の銀峯山:奈良県五條市)で挙兵し、賀名生の内裏や公卿の宿所を次々と焼き払いました。南朝の人々は混乱し、
「これは敵を欺くための芝居なのだろうか。あるいは、あえて自らの陣を焼くことで背水の陣を布こうという趣旨なのだろうか」
などと話し合ったといいます。興良親王が裏切ったと考える人はほとんどいなかったようです。
数日経ってようやく親王の裏切りが発覚し、後村上天皇は鎮圧軍として二条師基ら千騎を派遣しました。親王の配下の兵たちはそもそも裏切りに納得していなかったらしく、南朝から鎮圧軍が派遣されたことを知ると、戦いもせず散り散りに逃げてしまいました。
それでも赤松氏範は二条軍と戦いますが、負傷して領国の播磨へと逃げていきました。興良親王自身は南都(奈良県奈良市)に逃亡しました。
それにしても不思議な裏切りです。興良親王が南朝を裏切るような伏線は一切なく、原因は全くもって不明です。興良親王にとって足利家は父(護良親王)の仇のはずなのですが、なぜ幕府を頼ったのでしょう。
なお、ここで南朝を裏切った人物は「陸良親王」と表記されており、これが興良親王と同一人物だとみられているのですが、別人とする説もあるようです。
