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日本人の物語00773【鎌倉末期】千早城の戦い 幕府軍撤退

 藁人形の計略による思わぬ被害に悩まされた幕府軍に対し、元弘3/正慶2(1333)年3月4日、幕府から
「戦をせずにただ時を過ごすとは何事か。すぐに城を攻略せよ」
と厳しい命令が届きました。兵糧攻めではなく、総攻撃をかけてすばやく城を落とせというのです。後述しますが、この頃には京の六波羅でも反乱軍との戦いが発生していたため、千早城に時間をかけるわけにいかなくなっていたようです。
 そこで幕府軍は、近くの山から城壁に橋を掛けて一気に攻め込む作戦を立てました。ありあまる財力を活かして京から大工500人が集められ、材木を集めて幅4.8メートル、長さ66メートルもの大きな橋を造ったのです。橋が完成すると、橋に縄を数千本も結び付け、滑車を使って橋を上げ、城の崖に倒して橋を架けることにより、兵たち5、6千人が城内へ向かって殺到していきました。
 ところが正成は一枚上手でした。楠木軍は、かねてより用意していた松明に火をつけて、薪を積み上げるように投げ、あらかじめ油を入れた水鉄砲を発射して橋に注ぎかけました。あっという間に橋は大炎上してしまいます。
 橋を渡って城内にたどり着こうとしていた兵は慌てて後ろに下がろうとしますが、後ろから次々と新たな兵がやって来ます。さらに飛び降りようにも橋はひどく高い場所にあり、落ちると命はありません。もたもたしたところ、火は谷風に煽られてますます勢いを増し、遂に橋は中ほどからポッキリと折れ、数千人が落下して行きました。転落死する者、焼死する者、合わせて数千人もの犠牲が出ました。
 『太平記』に記されたこのエピソードはフィクションかもしれませんが、千早城の近辺に「懸橋」という地名が残っていることから、実際に実行された作戦である可能性もあります。
 そうこうしているうちに、4月になり、5月になりました。
 詳しくは後述しますが、5月には六波羅探題をめぐる攻防戦が大きく展開します。千早城を取り囲んでいた幕府軍は、急いで六波羅に戻る必要が生じたため、5月8日に千早城からの撤退を決めました。
 5月10日早朝、幕府軍は千早城を陥落させられないままむなしく撤退していきました。千早城が3ヶ月もの間持ちこたえたことは、六波羅や鎌倉での戦いに大きく影響したことでしょう。
 次回以降、六波羅での足利尊氏の戦いと鎌倉での新田義貞の戦いを見ていきますが、これらは千早城の戦いと並行して起こったものだとご理解ください。

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