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日本人の物語01081【南北朝中期】兵部少輔の死

今日は歴史というより伝承っぽいお話です。

 足利直冬、斯波高経、山名時氏、桃井直常、石塔頼房といった南朝方の主な武将は、合戦に敗れたのでみな領国に戻っていきました。京の都は今回の戦いで大きく傷つきましたが、ようやく静かになりました。
 ここで太平記は、京の荒廃と公家の没落ぶりについて、紙面を費やしています。
 これまでの20年近い内紛により、皇居も院御所も皇族や公家の邸宅も、多くが焼けてしまいました。街中には折り重なるように白骨が置かれ、それも長らく放置されたせいで草に覆われていました。
 家々の状況については「白河に武士の館があるほかは、民家は一軒もない」と書かれており、それは大袈裟だとしても鴨川の西側がかなり焼亡したのは事実でしょう。
 京に住んでいた人々がどうなったかというと、大井川や桂川の底に死体となって沈んだ人、遠国に逃れて親類を頼る人、片田舎に隠れて粗末な庵でわびしい暮らしをする人など様々で、京に残った人は餓死するケースが多かったようです。
 特に哀れな人として取り上げられているのが、御所を警備する役人だった兵部少輔某という人です。名前は残っていませんが、兵部省の少輔ですからそこそこの下級貴族でしょう。
 彼はかつては富み栄えていましたが、内乱によって家にあった財宝が全て奪い取られ、家来や親族もいなくなり、妻と9歳の息子と7歳の娘と4人で暮らしていました。
 路上で物乞いするわけにもいかず、彼は妻と子供を連れて丹波国へと下っていきました。特に当てもない旅で、夜になると野原に衣類を敷いて泣き明かす生活でした。
 京を出て10日ほどして、思出川(兵庫県丹波市)に行き着きました。もう10日間、道に落ちていた栗や柿しか食べていません。彼は川向こうの民家へ物乞いに行きました。ところが彼は、たまたま居合わせた役人たちに「さては強盗か」と疑われ、捕らえられてしまいます。
 夫の帰りを待っていた妻は、地元の人から
「先ほど物乞いの男が捕らえられたぞ。もう殺されたかもしれん」
と聞き、2人の子供とともに思出川に身を投げて自害してしまいます。その後、疑いの晴れた兵部少輔は、菓子や果物をもらって戻ってきたものの、川に浮く妻子の死体を見て絶望し、後を追いました。
 地元の人々は、この哀れな家族を懇ろに追悼し、「三つ塚」という墓を建てました。そこは現在「三ツ塚史跡公園」として整備されています。
 京都の荒廃といえば応仁の乱が有名ですが、第六次京都合戦においても相当な被害があったのですね。

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