日本人の物語01424【三山】舜天王朝の終焉
後世の創作らしき話ばかりですが、それでも良いのでもっと歴史教育の中で教えられるようになってほしいですね。
続いて国王になったのは、舜天の子・舜馬順煕(しゅんばじゅんき:1185~1248)です。1238年に即位した舜馬順煕は、父と同様に慈愛に満ち溢れた政治を行い、国内は安定したとのことですが、『中山世譜』には
「その事績については詳しく考察すべきものがない」
と記されています。この2代国王は1248年に63歳で崩御しました。
続いて1249年、舜馬順煕の子・義本(ぎほん:1206~?)が44歳で即位しますが、これが舜天王朝の最後の王となります。
翌1250年から、天候不順による飢饉と疫病の流行が始まりました。数年間で国民の半数が死亡するという一大危機だったといいます。
玉城(沖縄県南城市)には次のような伝説が残されています。義本は全く雨が降らないことに責任を感じて、玉城で薪を積み上げ、その中に自ら座って薪に火をつけさせました。まさに義本の体に火が迫ろうとしたそのとき、遂に雨が降り始め、義本の命は助かりました。その場所は雨乞いの御嶽(うたき)と呼ばれるようになりました。
雨乞いには成功したものの、疫病の流行はやみません。義本は群臣を招集し、
「この疫病は私に徳が足りないために起こったものだ。私の代わりに誰か徳のある者に国を譲りたいのだが、誰がよいだろうか」
と相談しました。
ここで皆が推薦したのが、英祖(えいそ:1229~1299)でした。
英祖は天孫王朝の最後の王・思金松兼の血を引いていました。というのも、思金松兼の孫が伊祖城(いそじょう:沖縄県浦添市)を拠点に浦添按司を務めており、その子が英祖なのです。
義本が試しに英祖を摂政に据えて政治を行わせてみたところ、見事に災厄が止み、国が大いに治まりました。英祖が摂政に就任してから7年後の1259年、54歳の義本は英祖に王位を譲って退位しました。
こうして舜天王朝は終わり、英祖王朝が始まるわけですが、
・そもそも義本や英祖が実在の人物なのか
・実在するとしても平和的な政権移譲ではなく武力によるクーデターだったのではないか
といった議論があります。
義本のその後は定かではありません。国頭村(くにがみそん)や北中城村(きたなかぐすくそん)など、複数の地に墓があるほか、奄美大島(鹿児島県奄美市)に渡ったとの説もあります。義本が遠方の地に逃亡せざるを得なかった点からみても、平和的な政権移譲だったとは思えないですね。
このあたりの歴史、沖縄県民の中ではどの程度知られているのでしょう。気になります。
