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日本人の物語00405【平安後期】信西登場

 さて、後白河天皇の即位によって、突如として歴史の表舞台に引き上げられた男がいました。信西(しんぜい:1106~1160)といいます。
 信西は元々、高階通憲(たかしなのみちのり)と名乗る弱小貴族でした。若い頃から学に秀で、あの藤原頼長が才覚を認めたという逸材です。頼長は、任官試験に不合格の者に学問を諦めるよう手紙を書いたりするほど厳しい人間ですから、その頼長に認められたということは本物だということです。
 しかしながら、高階通憲がいかに学才に秀でていても、生まれた家の格が低いことから、通憲が思うほどに出世はままなりませんでした。通憲は出世の道を断たれたことに失望し、康治2(1143)年に出家して「信西」と名乗るようになります。
 通憲の出家に当たり、藤原頼長は通憲に
「才、世に余り、世、これを尊ばず。これ、天の我国を亡すなり」
と書状を送っています。通憲ほどの才能の持ち主が登用されないことは、我が国にとって損失だと嘆いているのです。この時点では、2人の関係は非常に良好だったということでしょう。
 ところがその後、運命はこの2人の友好関係を引き裂いていきます。
 信西の妻である藤原朝子(ふじわらのあさこ:?~1166)が雅仁親王の乳母であったことから、雅仁親王が後白河天皇として即位したことに伴い、信西は突如として引き立てられ、昇進していくのです。
 一方の頼長は、崇徳上皇方に属していたため、後白河天皇の即位によって権力を失っていきました。こののち起こる保元の乱において、頼長は崇徳上皇方のブレーン、信西は後白河天皇方のブレーンとして、それぞれ作戦立案の役割を担うこととなります。
 さて、保元元(1156)年6月。53歳の鳥羽法皇は病に倒れ、危篤となりました。
 崇徳上皇は「最後に一目でいいから父の死に目に会いたい」と鳥羽法皇を訪れます。最後の最後に、父と和解したかったのかもしれません。しかし鳥羽法皇はこれを許しません。会わないどころか、側近の藤原惟方(ふじわらのこれかた:1125~?)に対し、
「自分の死に顔を上皇に見せるな」
と指示します。葬儀への参列も許さないというのです。追い返された崇徳上皇は憤慨します。
 7月2日。戦乱の火種を撒きに撒いた上で、鳥羽法皇は崩御しました。崇徳上皇は葬儀への参列すら許されませんでした。崇徳上皇の怨念がいよいよ火を噴こうとしています。

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