日本人の物語01637【室町/西国/六角征伐】義尚の反抗期
富子の権力の大きさがよく分かるエピソードです。
文明12(1480)年4月。数え16歳となった将軍義尚は、富子の妹を正室に迎えました。義満以来の「日野家の娘を正室とする」という慣習を踏襲したのです。この正室の名は残っておらず、祥雲院(しょううんいん)という落飾後の院号しか分かりません。
妻をめとった義尚は、落ち着くどころか両親への反抗を強めます。5月に突然、政治に関与させてくれない父への不満を爆発させ、自ら髻(もとどり)を切ってしまいました。髻を切るのは武士をやめることにほかならず、今でいうとリストカットと同程度の衝撃的な行為です。義政は近いうちに政務を譲るからといって息子をなだめました。
既に述べたとおり、義政・富子は義尚を立派な将軍に育てるべく一条兼良を義尚の家庭教師につけていましたが(01581回参照)、7月にはその一条兼良が義尚に政治の心構えを説いた『樵談治要(しょうだんちよう)』という文書を執筆し、献上しました。これを知った大乗院尋尊は
「犬の前で仏の教えを説くようなものだ」
と皮肉っており、義尚が将軍の器ではないと認識していたことが分かります。
結局、兼良の教えを義尚は気に入らなかったようです。というのも、兼良は富子と良好な関係を結んでおり、『小夜のねざめ』という富子への教訓書で、紫式部や北条政子といった歴史上の女性の役割を高く評価し、
「この日本国は和国とて、女の治めはべるべき国なり」
とまで述べて富子をヨイショしているのです。富子による統治こそが望ましいというわけです。母富子に反発する義尚としては、そのような兼良の教えには従いたくなかったでしょう。
確かに富子は、当時政界の最高権力者でした。人事や土地訴訟については大御所義政が決裁していたものの、その他の政策に係る富子の発言権は義政を上回っていたと思われます。
例えば9月11日には、内裏の修理費に充てるため幕府が京都七口に関所を設けて通行税を徴収し始めましたが、これは富子が決定したことでした。巷では
「内裏の修理費に充てるというのは嘘で、実際には富子の元に入るらしい」
との噂が立ち、関所廃止を求めて土一揆が発生しました。大乗院尋尊の日記には
「富子御台、内裏修理のためと号してこれを建てられ、莫大の供養これを納めらるるといへども、修理においては有名無実なり。関銭の一切、富子御台の御物にならせらる」
と記されていますし、中御門宣胤(なかみかどのぶたね:1442~1525)の日記には
「近日土一揆蜂起し、東西南北の新関、各々押し寄せ破却せしむ。これ全て富子御台の好事のゆえなり」
と記され、富子が民衆から忌み嫌われていたことが分かります。
このように富子が実権を握っていることを、義尚は快く思いませんでした。義尚の両親への反抗ぶりはますます悪化していきます。
『小夜のねざめ』は高市さんに献上すると良いかもしれませんね。日本で女性が最高権力者になったのは日野富子以来かもしれません。
