日本人の物語01051【南北朝中期】第四次京都合戦 頼春戦死
最近、歴史好きの方と話すと「youtubeで歴史を勉強している」という方ばかりです。もちろんyoutubeにも良質な動画はあるとは思うのですが、特定の思想や史観を広めるために事実とかけ離れた話を延々話しているチャンネルが非常に多いので(というか、私の前に現れるのはそういうチャンネルを見ている人ばかりです)、いかがなものかなあと思います。
東国で起こった武蔵野合戦について見てきました。ここからは、同時並行的に京で起こった第四次京都合戦について見ていきます。
正平7(1352)年閏2月19日。後村上天皇の軍が八幡に到着したところまでは既にお話ししましたね。義詮が懸念していたとおり、南朝方は和睦を一方的に破棄して京に攻め入ってきます。第四次京都合戦の始まりです。
閏2月20日朝8時。まずは北畠顕能が3千騎で鳥羽から京へと攻め寄せました。続いて、千種顕経(ちくさあきつね)が500騎で丹波路から西七条に押し寄せます。さらに和田正武(わだまさたけ)・楠木正儀らが5千騎で桂川を渡って七条大宮へと迫ってきました。京の人々は慌てふためきます。
幕府方では、千本に宿所を置いていた細川顕氏が西七条の煙を見て出動しました。しかし僅か150騎で敵に近づいてしまったため、次々とやられてしまい、顕氏は僅か8騎になって若狭を目指し逃亡しました。全く敵襲を予期していなかったのでしょう。
顕氏の従兄弟に当たる細川頼春は、これまた東寺あたりで敵を防ごうとしましたが、僅か300騎で和田正武・楠木正儀の3千騎と対峙することとなってしまいました。
楠木正儀はあらかじめ梯子を用意して、これを民家の垣根に立てかけて屋根に昇った上で矢を次々と射てきました。細川頼春らがこれに苦戦して進みかねていたところを、和田・楠木の500騎がわっと襲い掛かってきました。
頼春の乗った馬が驚いて飛び上がり、頼春は鞍から振り落とされてしまいます。そこに敵が斬りかかってきたのを、頼春はどうにか敵の両膝を薙ぎ払って起き上がろうとしたのですが、走り寄ってきた和田の家臣に喉笛を突かれて絶命しました。大将格が討ち死にとは、幕府方の大敗といってよいでしょう。
従兄弟の頼春が戦死したと聞いた細川顕氏は逃亡し、義詮は僅か150騎で近江を目指して逃げていきました。
琵琶湖まで来たところで、義詮ははたと困り果てました。瀬田橋が焼き落とされているのです。近江国内の南朝勢力がやったことと思われますが、こちら側には船もないので渡ることができません。義詮軍の兵たちは
「これならあっさり都で討ち死にした方がよかった。見苦しく逃げてきて、死体を湖水の底に沈めるなどというのは恥辱だ」
と口々に言いました。義詮を含め皆が鎧を脱いで、切腹の準備を始めます。
ところがここに救世主がいました。相模国の住人・曽我左衛門(そがさえもん)という者が水泳の達者であり、向こう岸まで泳いで小舟を入手し、自分で漕いで来たのです。何度か往復することで150騎の兵は残らず琵琶湖を渡ることができました。まさに命からがらの逃亡劇でした。
