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日本人の物語01387【室町/義教期】嘉吉の乱 進まぬ討伐

ここから突然、義教に嫌われていた畠山持国が復帰し、存在感を発揮してきます。

 仇討ちよりも恩赦を優先させる管領・細川持之は、嘉吉元(1441)年7月初旬の段階で
「義教に処分された者を赦免する」
との方針を打ち出し、その筆頭として最近罷免されたばかりの畠山持国の名を挙げました。前述のとおり、畠山持国は家臣の遊佐国政・斎藤祐定の二人に陥れられ、家督を弟の持永に明け渡したのでしたね。
 赦免を知った持国はさっそく上洛の準備を始めます。この頃京では、畠山持国が細川持之の使者に対して
「弟の持永に恨みはないが、遊佐・斎藤の二人は許せない」
と語ったとの噂も出回りました。この噂を聞いた遊佐国政・斎藤祐定は持国の上洛を防ごうと軍備を強化しますが、一方持永は戦意を失って越中に逃亡してしまいます。
 赤松討伐が遅れた理由については想像するしかありませんが、幕府に反発していた畠山持国が赤松と結びつくことを恐れたためではないでしょうか。つまり、急いで赤松を討伐しているところに後ろから畠山持国がやって来ると挟み撃ちに遭うわけですから、持国を赦免することであらかじめその懸念を払拭する必要があったと思われます。
 それだけでなく、義教の理不尽な指示によって家督を追われた持国に対して、幕閣一同の間で同情心もあったことは間違いないでしょう。幕閣たちは皆、横暴な将軍の死に安堵し、内心では満祐に感謝すらしていたかもしれません。
 7月17日になって、
「赤松満祐が南朝方の小倉宮の末子を奪ったらしい」
との風説が広まりました。真偽不明ですが、仮に真実だとすると朝廷・幕府に対する明確な反逆です。
 この風説を受けて7月26日、管領細川持之は、後花園天皇に赤松討伐の綸旨を出してもらうべく申請しました。間に立った万里小路時房は
「赤松は朝敵ではないしこれは幕府内の私闘ではないか」
と述べて拒絶しますが、持之は粘り強く交渉し、やむなく時房も折れました。
 してみると、「満祐が南朝方の皇族を擁立した」というのは追討綸旨を欲しがった持之の作り話かもしれません。事実、この南朝方の皇族はその後影も形も見えないのです。朝廷を利用してやろうというしたたかさが見えますが、逆にいうと将軍なき今、朝廷を利用しなければ十分な権威を示せないという切実な状況も見てとれます。

南朝方の皇族は、この後の応仁の乱でも登場します。登場といっても、噂話として広がるだけなのですが。

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