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日本人の物語01165【南北朝後期】南北朝後期総括

まとめながら思ったのですが、南北朝時代の後半って教科書でも飛ばされてしまう部分ですね。有名人が少なすぎます。

 正平15/延文5(1360)年5月28日から正平23/応安元(1368)年3月11日までを「南北朝後期」としてまとめて来ました。
 この8年の間に、仁木義長、畠山国清、細川清氏、斯波高経といった有力守護たちが次々と幕府を裏切ったわけですが、正確には裏切りというより内紛による失脚といった方が良いかもしれません。
 いかんせん、室町幕府は守護たちに独自の徴税権を与え、その自治権を認め過ぎました。これにより守護たちは将軍に恩義を感じることもなく、好き勝手に振る舞うようになりました。そして守護同士が対立しても幕府にはそれを仲介する力もなく、守護たちに押されるままに失脚した者の追討を指示するばかりでした。
 南北朝時代が始まって30年。今や起こっているのは南朝と北朝の戦いではなく、北朝の内紛ばかりです。南朝方は北朝の内紛の隙間を縫うように京を攻撃し、短期間占領することしかできません。
 僅かに九州だけが例外です。九州は筑後川の戦いによって南朝方が北朝を完全に圧倒し、全土を制圧することとなりました。その後の長者原の戦いでも南朝方が勝利しています。
 幕府は、南朝というより有力守護の度重なる離反によって滅亡の危機にさらされました。特に執事・細川清氏の離反は非常に大きな痛手だったでしょう。
 その清氏の反逆を白峰合戦で見事鎮圧したのが、従兄弟の頼之でした。頼之は政治家であってさほど戦上手なイメージはありませんが、白峰合戦で見事清氏を討ち取ったことは、南北朝の動乱に決着をつける上で大きな役割を果たしたと思われます。
 もう一つ特筆すべきことは、幕府が離反した守護を復帰させることに注力していることです。内紛を終わらせるため、幕府は恥も外聞も捨てて実を取ろうとしているようです。ところが、ある人物を復帰させるとそれと敵対する者がまた寝返る、というモグラ叩きの様相を呈しており、これも上手くいっていません。
 さて、南朝方でも北朝方でも徐々に厭戦気分が蔓延してきたこともあり、義詮と後村上天皇は和睦に向けて交渉を開始しましたが、どうも上手くまとまりません。
 残念ながら南朝・北朝トップが同時期に病死したため、講和は幻に終わりました。そしてこの後、南朝・長慶天皇はその在位中、一切和平交渉を行いませんでした。かなりの強硬派だったのでしょう。
 和睦は最高責任者の強い思い入れがなければ実現しません。泥沼の戦争が30年以上続いている中で、せっかく和平を志していた二人が退場し、3代将軍となるべき春王(義満)は未だ9歳。リーダーシップは期待できません。
 こうした中、管領に就任した細川頼之はどう振る舞い、動乱にどう決着をつけるのか。その手腕を次章でじっくりとご覧ください。

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