日本人の物語01201【南北朝最末期】康暦の内戦
大内義弘と大内満弘が戦った「安芸内郡の戦い」がどこで行われたのか、いくら調べても分かりませんでした。山口県教育委員会とかに問い合わせれば分かるんですかね・・・。
九州では、なおも了俊が菊池・島津両氏との戦いに苦戦していました。天授5/康暦元(1379)年11月、了俊の命を受けた禰寝久清は、島津氏久の支配する西俣城と大姶良城(いずれも鹿児島県鹿屋市)を攻撃しましたが、攻略できません。
さて、了俊に協力するかどうかをめぐって、大内弘世・義弘父子の間で意見対立があった旨は既に述べました。
恐らく弘世の目には、室町幕府の支配体制はまだまだ脆弱に見えたのでしょう。このまま了俊への支援を続けていても、本拠地である周防・長門を留守にする期間がいたずらに長引くだけで、何らの利益も得られないではないか。むしろ実力で所領を刈り取り放題の世が到来したのだから、この機会に石見や備後など未だ盤石な政権が立っていない国を取りに行った方が得である。これが弘世の戦略眼であったでしょう。弘世は
「周防を留守にしてまで了俊を支援する必要はない」
と主張し、大宰府陥落を機に山口に帰国してしまい、その後は二度と九州に上陸しませんでした。
一方、了俊の姪と結婚した義弘からみると、了俊は着々と九州支配を強めており、室町幕府による全国制圧の日は近いと思えたのでしょう。ここで苦戦中の了俊を支援することで幕府内での地位を高め、発言権を強めることこそが大内家の隆盛につながる、と義弘は考えたはずです。義弘は父の考えに背き、単独で九州に渡って了俊を支援しました。
この父子争いは、兄弟争いを呼び起こします。父・弘世を支持する次男・満弘(みつひろ:?~1397)と長男・義弘との対立が始まったのです。
この対立は死者数十名を出す内戦にまで発展しました。天授6/康暦2(1380)年5月10日に長門栄山城(山口県山口市)の戦いが起こり、満弘方が義弘方を破りました。ただし、5月28日の安芸内郡の戦い(場所不明)では逆に義弘方が満弘方を破っています。
内戦は5ヶ月間も続きましたが、10月5日に義弘が栄山城を奪回したことでほぼ決着がつきました。そして11月15日に父・弘世が死去したことで兄弟はめでたく和解することとなります。
結果からみると、了俊は九州を制圧して南朝方を駆逐しますし、京でも事実上南朝が降伏するに近い形で南北朝の合一が行われるわけで、兄・義弘こそ先見の明があったといえるでしょう。
義弘はその後、明徳の乱でも南北朝合一でも活躍し、大いに家名を上げることとなりますが、やがて思わぬ形で足元をすくわれることとなります。
