見出し画像

日本人の物語00427【平安後期】平治の乱 常盤御前と子供たち

 さて、ここで義朝の愛妾・常盤(ときわ:1138~?)を紹介しなければなりません。
 久安6(1150)年に、藤原忠通が養女・呈子を近衛天皇に入内させたという話は既に述べました。このとき、親馬鹿な忠通は「都の美女1000人を集めよ」と指示し、その中から特に美しい者を10人選んで、呈子の雑仕女としました。その際、最も美しいとされた女が常盤でした。
 この常盤は、源義朝に見初められて側室となり、3人の子を産みました。
・今若(いまわか:後の阿野全成:1153~1203)
・乙若(おとわか:後の義円:1155~1181)
・牛若(うしわか:後の源義経:1159~1189)
 平治の乱により夫・義朝が敗北したことを知った常盤は、子が殺されるのを恐れ、6歳の今若、4歳の乙若、0歳の牛若を連れて家を出ました。最初は清水寺に匿われますが、そこは清盛の居館・六波羅に近いため、「ここは危ない」と感じた常盤は夜明け前にそこを出て、京の町をさまよいます。しかし、できるだけ六波羅から離れたつもりが、道に迷ってしまい、なんと行き着いた場所は六波羅でした。
 泣き声をあげる今若に対し、常盤が「ここは六波羅です。泣けば怪しまれ、首を斬られます。8つにもなってなぜそれが分からないのですか」と諭すと、今若は泣き止んだといいます。数え年8つ(満6歳)の今若に対してあまりに無茶を求めている気がしますが、常盤も生き延びようと必死だったのでしょう。
 その後常盤は見知らぬ老婆に一夜かくまわれた後、宇陀(奈良県宇陀市)に逃れました。
 平氏軍は義朝の子を根絶やしにするため、必死になって常盤を探します。平氏軍は京にいた常盤の母を捕らえ、拷問しますが、この母は気丈にも「たとえ知っていても娘の居場所は言わない」と言って、決して常盤の潜伏先を漏らしませんでした。
 平治2(1160)年3月。母が捕らわれたことを知った常盤は、やむなく六波羅に投降しました。「子らが殺されるところを見るのは忍びないので、先に殺してほしい」と嘆願する常盤の美しさに心を動かされた清盛は、常盤とその子らを助命することを決めました。その条件は、3人の子を全て出家させることと、常盤自身が清盛の妾となることでした。常盤は自らの身を売ることで、3人の子の命を救ったのです。
 こうして、今若は醍醐寺(京都市伏見区)に、乙若は園城寺(大津市)に、牛若は鞍馬寺(京都市左京区)に、それぞれ別々に引き取られることとなりました。この牛若がのちに源義経となり、兄・頼朝とともに平家を滅ぼすこととなるのです。
 翌永暦2(1161)年には、常盤は清盛の娘・廊御方(ろうのおんかた:1161?~)を産むことになります。廊御方は平家一門の娘でありながら、兄・義経の攻撃を受け一族を滅ぼされるという数奇な運命を辿ることとなるのですが、後世に創作された架空の人物だという説もあります。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集