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日本人の物語01486【室町/西国/大乱前夜】長禄・寛正の飢饉

「義政が民衆の生活に無関心だった」というエピソードです。今回の話は伝承の類ではなく史料に残った史実です。

 長禄4(1460)年の冬は、8万人を超える餓死者が出るほどの大飢饉となりました。「長禄・寛正の飢饉」と呼ばれるこの飢饉は、室町時代最大のものです。
 飢饉の原因は、前年から続く異常気象にありました。雨が長く降らなかったり、降り出すとなかなか止まなかったりして、食糧生産力は著しく落ちました。飢えた人々は京へと集まりましたが、京も食糧不足な上に疫病が流行し、鴨川の河原には死体の山が築かれたといいます。
 こうした大飢饉のさなかになおも庭園作りや御所の改築を続ける義政に対し、後花園天皇は苦言を呈しました。寛正2(1461)年2月、次のような漢詩を義政に書き送ったのです。
「残民争採首陽蕨 処々閉炉鎖竹扉 詩興吟酸春二月 満城紅緑為誰肥」
 書き下すと次のとおりです。
「残民(ざんみん)争いて首陽の蕨(わらび)を採る 処々炉を閉ざし竹扉(ちくひ)を鎖(とざ)す 詩興吟(ぎんずれ)は酸なり春二月 満城の紅緑誰のために肥ゆる」
 どういう意味かといいますと、
「飢えに苦しむ民衆は、争って首陽山(中国の洛陽にある山)のワラビを採っている。どの家もかまどの火が消え、扉を閉ざしている。本来ならば詩などに興じるべき春なのに、何という不幸なことか。花や木々の緑は一体誰のために輝いているのだろう」
といったところです。
 この「花や木々の緑は一体誰のために輝いているのか」という一節は、河原に積もる死体の山を見ようとせず、山水の美しさにばかり目を向けている義政を痛烈に皮肉ったものでしょう。
 実は義政は飢饉に対して一切対策を講じなかったわけではなく、時宗の僧・願阿弥(がんあみ)に百貫文を渡し、粟粥や野菜汁の炊き出しを行わせていました。しかし焼け石に水だったようです。炊き出しよりも庭園造営や御所改築にかける費用の方が圧倒的に大きく、義政は民衆の生活に無関心だったといえます。
 一方、義政の造営事業は飢餓対策のための公共事業だったとの見解もあるようです。確かに貨幣経済が発達した社会であれば、公共事業は貧困対策としては効果的です。しかし当時必要だったのは貨幣の流通促進ではなく食糧の増産であり、当時の経済状況の中では造営事業はさほど効果的ではなかったと考えられます。

最近、そば屋さんで「山菜そば」を注文したらワラビが入っていました。当時ワラビを採りに行くのは余程困窮した人たちだったのでしょうか。

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