見出し画像

日本人の物語01413【信広渡海】武田信広 蠣崎蔵人の乱

「蔵人」というのは平安時代には「くろうど」と読んでいたはずですが、室町時代くらいから「くらんど」になるんです。なぜでしょうね。

 武田信広の正体について、次に『東北太平記』の記述を見ていきたいと思います。これまた江戸時代の文献なので信頼性は低いですが。
 南部氏は前述のとおり、八戸と三戸に分かれていました。この時点での当主は、
・八戸南部政経(はちのへなんぶまさつね)
・三戸南部光政
です。そして三戸南部光政の配下には、蠣崎(青森県むつ市:下北半島の南西部)を治める蠣崎蔵人(くらんど)こと蠣崎信純(かきざきのぶずみ)という国人がいました。その蠣崎蔵人が康正2(1456)年から翌年にかけて、反乱を起こすのです。
 蠣崎蔵人の反乱の原因は、南部氏が匿っていた「北部王家(きたべおうけ)」をめぐる問題でした。これまた眉唾物ですが、南北朝時代に護良親王の遺児・良尹親王(ながただしんのう)が、南部信政(なんぶのぶまさ:?~1348)の庇護を受けて密かに順法寺城(青森県むつ市)に入城していたのです。これを「北部王家」といいます。
 良尹親王とその子・尹義親王(ただよししんのう)が死去すると、南部氏はさらに後村上天皇の皇子・宗尹親王(むねただしんのう)を迎えて来たるべき南朝方の復権に備えていました。
 身分を隠すため、宗尹親王はやがて「新田義祥(にったよしさち)」と名乗るようになり、その子が新田義邦(にったよしくに)、さらにその子が新田義純(にったよしずみ)です。もうこの頃には南北朝はとっくに合一し、室町幕府の統治下になっています。
 新田義純は南朝の復興を諦め、堕落した生活を送っていました。野沢出山(青森県東通村)から出土した金で繁栄し、あろうことか幕府高官である管領・畠山満家の娘を娶ったといわれています。
 南部家の重臣・蠣崎蔵人は、新田義純が南朝の末裔であるにもかかわらず幕府に仕えている現状に立腹し、康正2(1456)年に新田義純を殺害してしまいました。
 八戸南部政経は事件発生に驚いたものの、直ちに蠣崎を討伐すべきか否か判断しかねたため、勅命を待つこととしました。しばらくして勅命が出たため、蠣崎城への攻撃を開始しましたが、蠣崎蔵人は蝦夷ヶ島のマトウマイ(松前)へと逃亡していきました。そこで蠣崎蔵人は「武田信広」と名乗りを変えるのです。
 いやはや、若狭武田氏の出身であるとの説とは大違いで、この説では武田信広は南朝に仕える蠣崎という武士だったという話になっています。そして辺境の地に南朝の後裔が住んでいたなど、いかにもフィクションらしい話でもあります。
 果たして武田信広とは何者なのか、もはや新たな史料の発見も期待できませんから、この謎が解ける日はきっと来ないでしょう。

南北朝時代が終わって大分経っているのに、まだまだ旧南朝勢力の話が出てきますね。

いいなと思ったら応援しよう!