日本人の物語01591【室町/西国/応仁の乱】織田大和守VS伊勢守
二つの織田家が登場しますが、今後重要なのは大和守家の方です。
少し時間を遡り、近江と尾張の戦いに言及したいと思います。
朝倉孝景が越前で戦っている間、近江でも戦乱が続いていました。近江の対立構造は
東軍: 京極政経・多賀高忠・六角政堯
西軍: 京極政光・多賀清直・六角高頼
となっていますが、この中で特に幕府(東軍)が手を焼いている相手が六角高頼でした。
文明7(1475)年8月に、多賀高忠が延暦寺や出雲尼子氏の助力を得て六角高頼と戦いましたが、決着がつかず終わりました。
10月になると、高頼は美濃守護代・斎藤妙椿から援軍をもらい、京極政経・多賀高忠を佐々木庄(滋賀県近江八幡市)で破りました。これにより大打撃を受けた京極政経は近江国内の拠点を失い、やむなくもう一つの領国である出雲へと下り、守護代・尼子清貞の庇護を受けることとなりました。
幕府は延暦寺を本格的に戦に駆り出そうということで、11月に延暦寺宛てに六角高頼討伐令を出しました。しかし高頼はあまりに強大で、結局最後まで幕府は高頼を屈服させることができずに終わります。
一方、凋落を極める斯波家では、越前での影響力を失った東軍方の義敏・義寛父子がやむなく別の領国である尾張で打開策を見出そうとしていました。ところが西軍方の斯波義廉もまた、越前を諦めて尾張に進出してきたのです。
尾張では、畠山持国のおかげで守護代に返り咲いた織田敏広(01466回参照)が、当然ながら持国の遺言に従って畠山義就を支持して西軍に属し、西軍の中心人物である斎藤妙椿の娘を娶って隣国美濃をも味方につけ、勢力を強めていました。一方、これに反発した敏広の従兄弟・織田敏定(おだとしさだ:1452~1495)は東軍に属しました。敏定と敏広の家名と居城をまとめておきます。
東幕府の尾張守護代: 織田敏定 大和守家 清洲城(愛知県清須市) 主君は斯波義敏
西幕府の尾張守護代: 織田敏広 伊勢守家 下津城(愛知県稲沢市) 主君は斯波義廉
11月18日。西軍方の義廉は織田敏広を頼って尾張に下国し、そこで東軍方と戦って斯波義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を一時的に尾張から駆逐してしまいました。東軍方は復讐の機会を窺います。
復讐が果たされたのは1年後でした。翌文明8(1476)年11月13日、織田敏定は斯波義敏の命を受けて下津城(おりづじょう:愛知県稲沢市)を攻め、織田敏広・斎藤妙椿に勝利しました。下津城は炎上し、敏広は山田郡の国府宮(愛知県稲沢市)に敗走していきます。
尾張の戦いは一進一退で、まだまだ続きます。
東軍と西軍の勢力が拮抗している国が多いですね。乱がなかなか治らない訳です。
