見出し画像

日本人の物語00585【鎌倉前期】土御門通親の失脚

 鎌倉で梶原景時が失脚したのと同じ頃、朝廷では幕府とのコネクションを築くことによって朝廷内で絶大な権限を得ていた土御門通親が、思わぬ原因で失脚することとなります。
 慈円が著した歴史書『愚管抄』によると、事の起こりは正治元(1199)年6月、土御門通親が後鳥羽天皇に入内させた養女・在子が通親と密通しているとの噂が流れたことでした。通親にとって在子は妻の連れ子に当たるため血族ではないものの、事実だとしたらとんでもない不倫行為ということになります。
 この噂はまたたく間に広まってしまい、後鳥羽上皇は在子や在子の産んだ土御門天皇を遠ざけ、女御・藤原重子(ふじわらのしげこ:1182~1264)ばかりを寵愛するようになりました。
 これは、かつて鳥羽法皇が子・崇徳上皇と「自分の子ではない」と疑って毛嫌いし、その寵愛が美徳門院得子に移った例とよく似ています。今回は後鳥羽上皇が子・土御門天皇を「自分の子ではない」と疑ってその寵愛を藤原重子に移したのかもしれません。
 しかし、この在子の醜聞は『愚管抄』以外の文献には見当たらないため、慈円が悪意を持って記したデマではないかとの意見もあります。
 藤原重子は在子の醜聞が起こる2年前に後鳥羽上皇の子・守成親王(もりなりしんのう:後の順徳天皇:1197~1242)を産んでいたのですが、土御門通親-在子-土御門天皇のラインに良からぬ噂が立ったとなると、当然天皇の後継として守成親王の存在感が増していきます。
 正治2(1200)年2月9日。通親は日記に
「今に於いては吾が力及ばず」
と記しています。どうにか土御門天皇と在子を盛り上げようと尽力しているのに上手くいかないと嘆いたのです。
 通親が懸念した通り、4月15日には守成親王が皇太弟となり、土御門天皇は立場を失いました。
 そして建仁2(1202)年10月21日、通親は失意のうちに急な病で世を去り、在子は後ろ盾を失ってしまいます。これに伴い、建久七年の政変で通親が失脚させた九条兼実は思わぬ形で復権することとなりました。
 思えば、後鳥羽上皇の寵愛が九条任子から土御門在子に移り、任子は宮中を追い出されたのでした。今度は寵愛が土御門在子から藤原重子に移り、在子は失脚したのです。世の習いとはいえ、宮中での権力闘争は実に熾烈なものがあります。
 ちなみに失意に暮れた在子は、なんと正嘉元(1257)年まで生き、87歳で死去しました。当時としては驚くべき長命ですね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集