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日本人の物語01540【室町/西国/応仁の乱】上御霊社の戦い

本格的に戦闘開始です。それにしても西軍は最初から卑怯なんですよね。東軍も途中からだんだん卑怯になりますが。

 前章では、家督を奪われた畠山政長が自邸に火を放って上御霊社に布陣したところまでお話ししました。文正2(1467)年1月18日夕方には義就軍が上御霊社に攻め込み、戦闘が始まりました。「上御霊社の戦い」又は「御霊合戦」と呼ばれる戦いです。
 このとき、将軍義政は
「これは畠山家の私戦であるから誰も一切手を出してはならぬ」
と厳命していました。細川勝元はこの命令を律儀に守り、政長への援軍を出そうとしません。政長家臣の神保長誠(じんぼうながのぶ:?~1501)は政長に
「いかに将軍の下知があったとはいえ、京兆殿(勝元)は密かに加勢してくれるでしょう」
と楽観的なことを述べていましたが、結局勝元からの支援は最後まで得られませんでした。
 ところが一方の義就軍に対しては、山名宗全や斯波義廉らの支援がありました。それどころか、宗全は1月18日のうちに後花園上皇・後土御門天皇・伏見宮貞常親王を内裏から連れ出し、将軍御所へと連れ込んでしまいました。そして宗全から後花園上皇に対して政長追討の院宣を申請し、それが認められてしまいます。軟禁された状況の上皇はこれを断れなかったのでしょう。このとき院宣を出したことを上皇は生涯後悔することになります。
 将軍から参戦を禁止されたとはいえ、院宣が出てさえいれば咎められることはありません。宗全・義廉は義就方に援軍を出し、翌1月19日未明には政長方を敗走させました。
 政長方も細川勝元に加勢を頼んだものの、勝元も将軍の命には逆らえません。勝元は
「今から加勢しても勝てないだろう。むしろ政長は死んだものと思わせ、油断したところを討てばよい」
と提案し、政長を太田(大阪府茨木市)まで逃亡するのを助けました。
 勝元は最後まで戦に参戦しなかったせいで、世間から「政長を見捨てた」との悪評を立てられてしまいました。それを揶揄するこんな狂歌が京で流行しました。
「ふる具足 五両まできて 尾張殿 細川きれを 頼むはかなさ」
(古い具足を五両まで着て、尾張守の政長は細い皮切れを頼りにしている。はかないことよ)
「細川の 水無瀬を知らで 頼みきて 畠山田は 焼けぞ失せぬる」
(細川には水がないのを知らずに頼ってきて、畠山の田は焼けてなくなってしまった)
「無性なる 竹を頼みて 尾張籠 くむより早く ふちぞ離るる」
(どうしようもない竹を頼った尾張守の政長は、籠を組む以前に縁を離れてしまった)
 かくも悪評を立てられた勝元は、宗全たちへの雪辱を誓ったのでした。

うまいこといって政権を揶揄するという文化は室町時代に始まったような気がしますね。いや、建武の新政のときからか。

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