日本人の物語01172【南北朝末期】南禅寺事件 新旧寺社の対立
現代人から見ると「お坊さんってこんな低レベルな争いするのかー」と意外に思える内容です。
かねてより延暦寺・園城寺に代表される旧寺社と、南禅寺・天龍寺に代表される禅宗の新興寺社との対立は深刻化していました。そもそも尊氏が天龍寺を建立した時点で旧寺社勢力は不満を募らせていましたが、その後も光厳上皇が天龍寺を訪問するなど、幕府の禅宗優遇ぶりは相当なものでした。
この両者の対立が火を噴いたのが、正平24/応安2(1369)年7月27日の「南禅寺事件」です。これは幕府が南禅寺の楼門を破却した事件なのですが、その原因については前々年の状況から筆を起こしていかなければなりません。
事の起こりは正平22/貞治6(1367)年のことです。南禅寺が楼門を造営するための費用を捻出しようと、東海道に関所を作って通行料を徴収しようとしました。
現代人からみると、寺社がなぜ敷地外の一般道路に関所を立てる権限を持っているのか理解できないでしょうが、当時は有力武士や有力寺社が武力にまかせて一般人から金を巻き上げることが問題視されない時代でした。だからこそあちこちで揉め事が起こるわけです。
関所ができて間もなく、園城寺に勤める小僧が料金を払わずに通行しようとして関守と喧嘩になり、殺されるという事件が発生しました。
怒った園城寺は南禅寺の関所に殴り込みをかけ、逆に僧2名を殺害します。こうして園城寺と南禅寺の戦いが始まりました。
興福寺と延暦寺はともに園城寺と同じ旧寺社勢力ですから、さっそく園城寺に味方する旨の声明を発しました。一方、天龍寺は同じ禅宗同士の縁で、南禅寺に味方する旨の声明を発します。旧寺社VS新興寺社の対立という構図の出来上がりです。
この対立はどんどんエスカレートしていきます。翌正平23/応安元(1368)年6月26日、南禅寺の僧・定山祖禅(じょうざんそぜん:1298~1374)が、著書『続正法論(しょくしょうぼうろん)』の中で、
「禅宗以外の他宗派は邪法である」
「延暦寺の僧は猿だ」
「園城寺の僧は三井のガマ蛙だ」
などと中傷したのです。これは
・延暦寺の鎮守である日吉神社の使いとされる神獣が猿であること
・園城寺の別称が三井寺であり、井戸の「井」の字が含まれていること
に掛けたジョークであり、明らかな中傷でした。
