日本人の物語00706【鎌倉後期】佐介時国と足利家時の死*
さて、安達泰盛は幕府財政を立て直すべく努力していましたが、その政策に真っ向から反対する勢力がありました。御内人筆頭たる内管領の平頼綱です。
御家人と御内人。現代で例えていうなら、御家人が正社員だとしたら、御内人は社長が自宅で雇っている使用人のようなもので、内管領とは使用人の中のトップです。しかしその使用人が社長秘書として振る舞い始め、いつの間にか会社の重要事項を決める権限を持ち始めてしまうのです。
特に平頼綱は、執権貞時の乳父として育ての親のように振る舞っていましたから、まだ少年に過ぎない貞時を言いくるめて意のままに動かすことは簡単だったでしょう。
弘安7(1284)年10月3日、頼綱は六波羅探題・佐介時国(さすけときくに:1263~1284)のもとに兵を差し向け、討ってしまいました。時国には「年来の悪行」があったためと書かれていますが、事実かどうか怪しいものです。誰かしらをスケープゴートにして、その所領を没収することが目的だったようにも思われます。
なお、これに先立つ6月25日、有力御家人の足利家時(あしかがいえとき:1260~1284)が原因不明の自殺を遂げています。これも頼綱の工作によるものと考えられます。
足利家時の自害については、こんなエピソードが残っています。足利氏には、先祖に当たる源義家が書き残した置文が代々伝わっており、その置文には
「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」
と書かれていたというのです。
家時は源義家から7代目の子孫なのですが、自分の代では達成できないと悲観した家時は、八幡大菩薩に
「私の3代子孫に天下を取らせよ」
と祈願し、願文を残して自害したといいます。
家時の子は足利貞氏(あしかがさだうじ:1273~1331)で、その子が足利尊氏(あしかがたかうじ:1305~1358)です。家時は自分の代では無理だった天下統一の夢を曽孫に託したわけですが、少し気が早いことに孫の尊氏が実現してしまったというわけですね。
このエピソードを書き残したのは今川了俊(いまがわりょうしゅん:1326~1420)という尊氏の盟友であり、了俊は
「自分もその置文を見たことがある」
などとうそぶいているのですが、これが足利家による室町幕府が開創された後で書かれたものなので、了俊が足利将軍の存在を正当化するために創作したものだろうと考えられています。


