日本人の物語00424【平安後期】平治の乱 藤原信頼の処刑
敗れた義朝は討ち死にしようとしますが、家臣の鎌田正清に諌められ、東国へ逃亡することに決めました。
逃亡中の義朝に「私も連れていってくれ」とすがりついてきた男がいました。信頼です。義朝は
「お前に追随したばっかりに、こんなことになった」
と恨み言を吐きかけ、馬の鞭で信頼の頬を打ち、追い払いました。
平治元(1159)年12月27日、信頼は後白河上皇が匿われていた仁和寺に行き、上皇にとりなしを頼みますが、返事をもらえませんでした。後白河の信頼に対する信任は完全に失われていたのです。信頼はそのまま仁和寺の前で平氏軍に捕らわれ、清盛の前に引きずり出されます。
信頼はここで命乞いをして、平氏軍に嘲笑されたといいます。もちろん助命はなされず、六条河原で斬首されることとなりました。12月14日に大将に就任してから僅か13日後の死でした。
さて、東国に落ち行く義朝一行は、近江で待ち受けていた比叡山の法師・西塔(さいとう)らの軍勢と出会います。西塔らは落ち武者を狩ろうとしていたのでしょう。ボロボロになった義朝らに、勝ち目はありません。
ここで知恵を絞って義朝を救ったのが、義朝配下の斎藤実盛(さいとうさねもり:1111~1183)でした。実盛は
「諸国から狩り集められた武者です。武具を差し上げるので通してください」
と言って、ここにいるのが源氏の総大将であることを悟られないようにしました。西塔らは最初から武具を奪って売り飛ばすのが目的ですから、これを認めます。
実盛はここで「受け取れ」と言って兜を谷に目がけて転がしました。西塔たちがそれを追いかけている間に義朝らは見事逃げおおせることができました。
義朝は近江国をさらに東に進みます。
このとき義朝は、15歳の次男・朝長(ともなが:1144~1159)や13歳の三男・頼朝(よりとも:1147~1199)を連れていました。しかし、三男・頼朝は馬上で居眠りをした結果、父の一行とはぐれてしまいます。気づいた義朝は必死に頼朝を探しましたが、もはや見つかりません。
さらにその後、青墓宿(岐阜県大垣市)で次男・朝長が歩けなくなりました。朝長は左の股を射られ重傷でした。「父の足手まといになりたくないので、殺してください」と懇願する朝長を、義朝は泣く泣く手にかけました。敗者の運命は常に残酷なものです。
