日本人の物語00763【鎌倉末期】下赤坂城奪還と天王寺の戦い
元弘2/元徳4(1332)年4月28日。光厳天皇が改元し、元号が「元徳」から「正慶」となりました。ただし、後醍醐側は光厳天皇の即位を認めていませんので、この改元は無効と主張し「元弘」を使い続けています。
さて、改元の少し前から楠木正成が再び決起しますので、ここからは正成の動きを見ていきましょう。
楠木正成は死んだものと思い込んでいた六波羅探題・普恩寺仲時は、正成の後任として湯浅宗藤(ゆあさむねふじ)を河内の地頭に任じていました。湯浅宗藤はかつて正成が立て籠もっていた下赤坂城を居城とし、反乱軍が再び決起しないよう周囲を見張っていました。
4月3日、死んだはずの楠木正成が現れ、あっという間に下赤坂城を陥落させてしまいます。その手法は次のようなものでした。湯浅方が夜間に城に兵糧を運ぼうとしたところ、楠木方は少人数でそれを襲って荷物を奪い、彼らに変装します。そして兵糧運び入れを装い、さらに楠木軍に追撃されて慌てている様子を演じつつ、
「早く城に入れてくれ!」
と頼んだのです。
城の守り手が急いで跳ね橋を下げ、中に入れてあげたところ、その兵糧に見えたのは実は武器でした。兵たちは入城すると武器を取り出し、たちまち城内を制圧してしまいました。湯浅宗藤は降伏し、やすやすと下赤坂城の奪還を許してしまいました。
下赤坂城を拠点として兵を集めた楠木正成は、5月17日、住吉・天王寺(大阪市)に布陣しました。楠木軍の復活を知った六波羅探題は、急ぎ京から鎮圧軍を繰り出します。
5月21日、六波羅から派遣された隅田次郎左衛門(すだじろうざえもん)と高橋刑部左衛門(たかはしぎょうぶざえもん)率いる軍勢は、渡部橋まで進軍して来ました。現在、大阪市堂島川に渡辺橋という橋がかかっていますが、おそらくこの付近にあった橋のことと考えられます。隅田と高橋は
「敵は少ない。十分勝てるだろう」
と考え、川を渡って天王寺へと向かいました。
六波羅軍は当初、次々と勝利して楠木軍を敗退させていきましたが、これは正成の計略でした。六波羅軍はいつの間にか奥深くに誘い込まれ、気づくと敵に囲まれていたのです。隅田・高橋らは敗退し、翌日六条河原には
「渡部の 水いかばかり 早ければ 高橋落ちて 隅田流るらむ」
と書かれた高札が掲げられ、隅田と高橋は大いに面目を失うこととなりました。この戦いを天王寺の戦いといいます。
