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日本人の物語00201【飛鳥】42代文武天皇

 持統天皇10(696)年7月10日。持統天皇に次いで政界ナンバー2の実力者であった高市皇子が死去しました。その子の長屋王(ながやおう:684~729)は、この後奈良時代には最高権力者となる人物ですが、この時点ではまだ12歳になったばかりです。
 持統天皇11(697)年2月16日。持統天皇は孫の珂瑠皇子を皇太子に立てました。しかし持統天皇としては、自らの死後に群臣たちがしっかり珂瑠皇子を盛り立ててくれるかどうかが不安で仕方なかったようです。持統天皇は一計を案じます。
 持統天皇が考えついたのは、自らが生きている間に天皇位を珂瑠皇子に譲り、自らの監視の下、群臣たちにそれを支えさせようということでした。
 これまで、生前に天皇位を退いたのは皇極天皇だけでした。しかし皇極天皇は天皇位を降りた後、どのような位置付けなのかが曖昧で、単に
「前の天皇」(さきのすめらみこと)
と呼ばれていました。
 一方、持統天皇は、天皇位を降りた後も一定の権力を保持しようと考えていました。そこで作ったのが
「太上天皇」(だいじょうてんのう)
という称号です。略して「上皇」ともいいます。上皇というシステムは、持統天皇の孫かわいさのあまり、作られたものだったのですね。
 珂瑠皇子が皇太子になった半年後の8月1日に持統天皇は譲位し、日本史上初の上皇となりました。珂瑠皇子は14歳の若さで即位しました。文武天皇です。
 文武天皇はすくすく育ち、大宝元(701)年、18歳の若さで子をもうけます。妃の藤原宮子(ふじわらのみやこ:不比等の長女:?~754)との間の子で、首皇子(おびとのみこ:後の聖武天皇:701~756)といいます。
 同年。刑部親王と藤原不比等が大宝律令(律が全6巻・令が全11巻)を完成させました。
律令は、唐をならった政治を進めるために必要不可欠なものです。律が刑法、令が行政法です。政治の実務は刑部親王と藤原不比等が担っていたようですね。
 これまでは「近江令」「飛鳥浄御原令」といった令だけの法律でしたが、やっと律と令の両方がそろったことになります。
 天武天皇と持統天皇という夫婦がトップにいる間に、天皇という号、日本という国号、首都機能を持った都城、律令を完成させ、国家の枠組みを作ったと評価できます。

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