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日本人の物語01534【室町/東国/享徳の乱】古河城の攻防

古河は茨城県でありながらほとんど栃木県みたいな場所にあります。川に囲まれた交通の要衝だったのでしょうね。

 甲城がなかなか落ちず焦る上杉軍でしたが、そうこうしているうちに将軍義政から山内上杉顕定・扇谷上杉政真宛てに、総攻撃を命じる御内書が発出されてしまいました。上杉方は甲城を諦め、敵の本城である古河城を先に攻めることにしました。小山持政に案内させつつ上杉軍一同は古河へ迫ります。
 こうして膠着状態から一転して、享徳の乱は一挙に展開し始めました。これまでダラダラと戦っていた上杉軍は、将軍義政の命令によって戦のスピードを速めたようです。
 文明3/享徳20(1471)年6月24日。長尾景信率いる上杉軍は、古河城に一斉攻撃を加えました。古河城はまたたく間に陥落し、成氏は臼井城(千葉県佐倉市)の馬加輔胤・孝胤(のりたね:1459?~1521?)父子のもとに逃れました。(孝胤以降は下総千葉氏の本家を自称しているため、千葉孝胤と称することとします。)
 このとき、上杉方が敗走する成氏を追撃していれば、きっと関東の混乱は早期に収束していたことでしょう。しかし何を思ったか、上杉軍は勝利を喜び、逃亡する敵を放置して五十子に撤退してしまったのです。食糧の補給が苦しかったのか、はたまた成氏方の実力を軽視して決定的打撃を与えたと勘違いしてしまったのか、詳細は不明です。
 いずれにせよ、敗退した成氏は千葉家の庇護を得て、再び兵を蓄えていきました。
 上杉方が千葉家の拠点に攻め入ったのは、9月9日のことでした。小弓城(千葉県千葉市)での合戦で、千葉家家宰・原胤房を討ち取るという戦果を上げたものの、このいかにも遅い追撃戦は十分な効果を上げられませんでした。というのも、翌文明4/享徳21(1472)年2月25日に成氏は軽々と古河城を奪回してしまったのです。
 拠点たる古河城に戻った成氏は、本格的に反撃を開始します。主戦場はもちろん上野国・下野国です。
 5月。成氏は足利荘(栃木県足利市)を回復するため、軍を世良田(群馬県太田市)へと繰り出しました。やはり足利氏発祥の地である足利荘は、足利一族である成氏にとって特別な意味を持つ土地なのでしょう。
 しかし、世良田の近傍には上杉方の一大拠点がありました。岩松家純の築いた金山城です。岩松軍が世良田の成氏軍を後ろから突くと、成氏軍はやむなく撤退していきました。
 成氏方の反撃攻勢は失敗し、またもや両軍は膠着状態に陥ります。一時的にやる気を見せていた上杉方も、再び受け身となって戦いを避けるようになります。そうこうするうちに、文明5/享徳22(1473)年6月23日、上杉方の中心人物である長尾景信が60歳で死去しました。
 結局、享徳の乱は応仁の乱の11年間を大きく超え、28年間も続くこととなるのです。

「三十年戦争」というとドイツ、「百年戦争」というと英仏を思い浮かべると思いますが、日本史の中でいうと「三十年戦争」は享徳の乱、「百年戦争」というと佐竹氏の内紛を指します。

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