見出し画像

日本人の物語01625【室町/東国/長尾景春の乱】長尾景春の乱総括

そういえばチャプタータイトルに人名のフルネームが入るのはこれが初めてですね。長尾景春が初で良かったのでしょうか。

 本章では、文明5/享徳22(1473)年6月23日から文明14(1482)年11月27日までの東国情勢を見てきました。29年間続いた「享徳の乱」のうち最後の9年半を見てきたことになります。
 享徳の乱は古河公方成氏と関東管領上杉家の戦いですが、その途中で上杉家中で長尾景春が反乱を起こし、対立構造はひどく複雑になりました。そして景春の行動がきっかけで享徳の乱は和睦に向かったのです。
 それにしても、長尾景春というのは不思議な反逆者です。家宰の職を継げなかったことを不服として主君・山内上杉顕定に対して反乱を起こしたわけですが、一体その目的は何だったのでしょうか。
 通常、家臣による主君への反乱というのは、主君を廃して別の人間(例えば主君の弟や叔父といった一族の者)を擁立するケースがほとんどです。ところが今回の景春の行動は、上杉家の誰かを擁立して行ったものではなく、単に主君を滅ぼそうとする行動です。「歴史上初めての下剋上」といえるかもしれません。
 ところが、景春が「自ら関東管領になろう」とまで考えたという話は出てきません。そもそも当時の常識では、上杉家の血を引いていない者が関東管領に就任することは不可能でした。景春が山内家家宰になりたいがゆえに顕定を殺そうとしたのだとしたら、一体その山内家の家長を誰にしようと考えていたのでしょうか。
 結局、景春がどのような出口戦略を描いていたのか全く分かっておらず、この反乱が下剋上の最初の例としてふさわしいかどうかは何ともいえません。そもそも五十子を襲撃した後、「この後どうしたらよいだろうか」と道灌に相談している始末ですから、何も考えていなかったのでしょう。
 景春が成氏と早い段階で連絡を取り合っていたとの説もありますが、根拠はありません。景春が五十子を襲撃したのが文明9/享徳26(1477)年1月で、成氏が古河から武蔵へと出陣してきたのが7月ですから、最初から連携していたとすれば遅すぎます。その6ヶ月の間に道灌は次々と武蔵・相模国内の景春拠点を落としているわけですから、成氏にとっても景春の乱は寝耳に水で、どう振る舞うかしばらく様子を見ていたと考えるべきでしょう。
 しかし、そんな景春の無計画な行動が結果的に享徳の乱を終わらせたのですから、不思議なものです。
 やっと関東に平和が訪れたわけですが、その後すぐに次なる戦乱「長享の乱」が勃発します。一旦西国情勢を見た後でまた東国に戻ってきたいと思います。

長尾景春は戦闘には強いものの、どうも抜けたところのある人物だったと思われます。今風にいうと「脳筋キャラ」でしょうね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集