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日本人の物語01328【室町/義持期】持氏、突然の妥協

称光天皇のメンタルが心配です。

 応永32(1425)年4月24日。後小松上皇が父・後円融の三十三回忌を執り行いました。後小松上皇は、義満に手玉に取られつくづく運のなかった父を弔うために、余程豪華な法事を行いたかったらしく、前述のとおり貞成王にひどく面倒な経の奉納を求めていましたが、それだけでなく、他の参列者に対しても金銀の捧物を所望しました。しかし倹約好きの義持は金や銀を使わず銅を用意したので、他の参列者もそれにならうことができたといいます。満済はこのことを「御善政」と記しています。
 この頃、祖父の法事が近いというのに、称光天皇はまたまたやらかしてしまいます。女房の大納言典侍(だいなごんてんし)が酒宴で飲み過ぎてしまい、心配した正親町三条実雅(おおぎまちさんじょうさねまさ:1409~1467)が様子を見に行っただけなのに、天皇は二人の密会を疑って実雅に謹慎を命じたのです。
 称光天皇の奇行が悪化したことについては、実は伏線がありました。称光天皇は伏見宮貞成王の親王宣下以来、おかしくなってしまったのです。体の弱い天皇は、自分が子を持たないまま崩御する可能性を感じていたのでしょう。そして父・後小松上皇がそれを見越して伏見宮家に皇位を譲る準備をしていることが許せなかったのです。
 子を持たないまま死去してしまうおそれは、義持も同様に抱えていました。3人の息子に先立たれた上、今や満39歳となった義持ですが、「やがて男子が産まれる」との石清水八幡宮の神託を頑なに信じていたのでメンタルには影響しなかったようです。
 その義持が実子を失ったことをチャンスと受け取ったのが、鎌倉の持氏です。持氏はこれだけ義持と敵対しておきながら、なんと義持の養子となって征夷大将軍に就くことを夢見ていたのです。夢というより、もはや誇大妄想というべきでしょうか。
 5月19日。持氏は義持に突如として大幅な譲歩をしてきました。
・常陸守護職は佐竹義人と山入祐義の折半とする
・甲斐は在京している武田信重が甲斐国入りすること(在京しないこと)を条件に守護として認める
との妥協を申し入れてきたのです。義持はもちろんこれを受諾しました。
 この妥協案は、常陸では上手く機能しましたが甲斐では上手くいきませんでした。持氏の要求を容れて、幕府は武田信重に甲斐国に下向するよう指示しましたが、信重は未だ持氏を信用できないとして、「敵軍に襲撃される可能性があるので甲斐には行けない」と主張して四国に隠遁してしまったのです。
 いずれにせよ、持氏は必死に義持に気に入られようとしています。ただ、あれだけ対立していた持氏が果たして義持の後継者に指名してもらえる可能性はあるのでしょうか。

持氏は本当に誇大妄想狂に近い気がします。これだけ戦乱を繰り広げておきながら、許されるだけでなく後継者指名まで望むとは、相当におかしな人物です。「俺から妥協したのだから、相手も妥協すべきだ」と考えたのでしょうか。

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