日本人の物語01352【室町/義教期】斯波義淳管領就任
高校時代、室町幕府の管領といえば「細川、斯波、畠山の3氏を覚えておくように」と言われました。何となく細川が筆頭で、それに次ぐのが斯波と畠山だと思っていたのですが、実は室町前期においては斯波の方が格上なのです。
将軍になった義教が最初に行ったことは、管領人事でした。かねてより金銭面の負担を理由に畠山満家は何度も管領辞任を申し出ていましたから、将軍就任というキリの良いところで管領を交代させようというわけです。
義教が新たな管領として選んだのは斯波義淳でした。前述のとおり、斯波家といえば
・義将: 初代(1362~1366)、3代(1379~1391)、5代(1393~1398)、8代(1409)
・義重: 7代(1405~1409)
・義淳: 9代(1409~1410)
と祖父・子・孫の3代連続で管領の重職を務めてきた一家です。義淳はまだ1年しか管領を務めていないため、義教は第13代管領に義淳を再任させようとしたのです。
しかし当時、管領職は金がかかる割においしくない職でした。
正長2(1429)年8月19日。義教は斯波家の執事である甲斐常治(かいじょうち:?~1459)を将軍御所に呼び、義淳の管領就任を命じましたが、これを常治から伝え聞いた義淳は翌20日に満済を訪ねて辞退したい旨を伝えました。
翌21日に満済はこれを義教に伝えますが、義教は許さず再度甲斐常治を呼び出して管領就任を強く迫りました。常治は
「我が主君が管領となれば正常な政治は行われず、天下に必ずや大事が起こり、それは将軍のためにもなりません」
などと述べて退出したといいます。
困った義教と満済は、翌22日に重臣の山名時熙・細川満久(ほそかわみつひさ:1386~1430)・赤松満祐の3名を呼び出して意見を求めました。周囲の賛成を得て外堀から埋めていこうという作戦でしょう。3名にとって自分に管領職が回ってこないことはもっけの幸いですから、当然に「なおも重ねて義淳に管領就任を命ずるべきです」と答えました。
義教は今度は幕臣の伊勢貞経・大舘満信(おおだちみつのぶ:1381~1451)を使者として義淳に管領就任を迫りましたが、義淳は甲斐常治を伴って満済を訪ね、あくまで固辞する旨を伝えます。翌23日に満済は義淳辞退の旨を義教に伝えますが義教はなおも諦めず、翌24日にはまたまた甲斐常治を呼び出し、さらに斯波家重臣の織田氏・朝倉氏をも呼び出し、義淳説得を強く命じました。常治はなおも
「先日申し上げたとおり、我が主君義淳は管領の器ではない。公方様を思うがゆえにそのような説得はできない」
と断り、織田・朝倉の両名もこれに同意して退出してしまいました。
義教は思い余って、自ら斯波邸に乗り込んで説得に当たると言い出します。慌てた満済は、将軍の御内書を持って斯波邸に赴き、6時間の説得の末にようやく義淳を同意させました。
当時、管領職がかくも嫌がられる役割だったとは、何とも意外です。
「我が主君は管領の器ではない」とディスる必要まであったのか疑問ですが、とにかく辞退したい気持ちは伝わってきますね。
