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日本人の物語00245【平安前期】勘解由使設置と延暦の大噴火

 延暦16(797)年9月4日。桓武天皇は勘解由使(かげゆし)という役職を新たに設置しました。
 勘解由使とは、国司交替時の引継書である「解由状(げゆじょう)」を監察する役割を持っています。租税納入が正しく行われているかなどを監督し、財政の正常化を図ったものでした。
 なぜこのような役職が必要だったのでしょうか。
 当時、国司の不正が横行していました。国司は「土地台帳の記載を捏造し、集まった租税を実際よりも小さく申告しておいて、その差額分を横領する」ということを日常的に行っていたのです。
 それを見破るチャンスは、国司の交替のときです。解由状には領地の土地台帳が多数含まれており、その記載を検分し、矛盾がないかを見極めるというわけです。土地台帳を一切の矛盾を生じさせないように捏造するのは困難でしょうから、しっかりと監察すればほとんどの不正は見抜けるはずだというわけです。
 こうした政策を立案するあたり、桓武天皇はなかなか政策的センスに優れた為政者だったようですね。
 ちなみに勘解由使に由来を持つ「勘解由小路(かでのこうじ)」という苗字があります。現在は山口県に一世帯しかないそうですが、歴史のあるお名前です。
 このように、精力的に政策課題を片付けていく桓武天皇ですが、民心はなかなか安定しませんでした。というのも、延暦19(800)年3月14日から4月18日にかけて、富士山が大噴火したのです。人々は「早良親王の祟りが続いている」と恐れました。
 桓武天皇は民を安心させるべく、早良親王に「崇道天皇」と追号し、祟りを治めようとしました。天皇に即位したことのない早良親王に対して、天皇号を追号して弔おうとしたわけです。
 ここからは余談ですが、その後、早良親王を始めとする6柱の怨霊を鎮魂するため、「御霊会(ごりょうえ)」と呼ばれる行事が行われるようになりました。この御霊会は全国的に広がっていき、貞観年間(859~877年)頃、大極殿の鬼門(北東)にあたる上高野の地に、早良親王を祀る崇道神社が創建されました。
 御霊会とは、毎年夏から秋にかけて行うもので、霊に対して経を読み、歌や舞を披露し、やがては相撲や競馬の催しが加わり、芸人たちの芸競べで場を盛り上げるようになりました。徐々に見物人が集まるようになり、これを目的に京の都を訪れる者も出てきました。目的が「霊を鎮める」ことから「自分たちが楽しむ」ことに変わって来たのですね。
 この御霊会の規模が大きくなったものが、現在も続く祇園祭です。祇園祭は早良親王の怨霊を契機に始まったものだったのです。

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