日本人の物語01173【南北朝末期】南禅寺事件 楼門破却
義満をテーマとした大河ドラマ、見てみたいですね。ネット上には「室町太平記」と題する架空の大河ドラマの脚本を上げておられる方がおり、そのレベルの高さに驚いたことがあります。
南禅寺の定山祖禅が園城寺に喧嘩を売ったことを受けて、正平23/応安元(1368)年8月29日、延暦寺は伝家の宝刀を抜きました。神輿を奉じて入京し、
・南禅寺の楼門の破却
・禅宗界の最高実力者・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)の流罪
・誹謗中傷の実行犯である定山祖禅の流罪
を幕府に要求してきたのです。特に、春屋妙葩は夢窓疎石の甥にして、当時の禅宗を牽引する人物でしたから、延暦寺としては早めに失脚させておきたい相手でしょう。
しかし幕府としては、尊氏以来親密な関係を保ってきた禅宗寺院を見捨てるわけにいきません。まして当時、南禅寺に代表される禅宗寺院のうち主要なものを「京都五山」とする制度が作られたばかりで、幕府はこの五山を優遇する政策を打ち出したばかりだったのです。(ちなみにどの寺院を五山とするかについて、初期にはだいぶ変動があったようですが、南禅寺がそのトップに立つことは揺るぎませんでした。五山の順位が確定するのは元中3/至徳3(1386)年のこととなります。)
五山筆頭である南禅寺を保護するため、幕府は当初は延暦寺の要求を拒否していましたが、朝廷の仲立ちと幕府内の妥協派の意見に推され、11月に定山祖禅を遠江に配流することとしました。しかし3点の要求項目のうち1点しか達成しなかったため延暦寺は満足せず、翌正平24/応安2(1369)年4月に再度入京し、市中に放火するなどの乱暴を働きました。
幕府はさらなる妥協を迫られ、7月27日に楼門を破却しました。これを受けて内大臣・三条公忠は、日記に
「神輿入洛以前に定山流罪のこと成敗せしめば、この儀に及ぶべからざるか」
(もっと早い段階で定山祖禅を流罪にしておけば、ここまでせずに済んだのではないか)
と記しています。
この三条公忠の日記の記述は、公家内には旧寺社勢力の味方が多かったことを示しています。幕府としては朝廷との関係を良好に保つ必要から、公家と結びついた旧寺社勢力を無視することはできず、一方で守護たちを統制する必要もあるので新興武士と結びついた禅宗を無視することもできず、厳しい判断を迫られたことでしょう。そうした中で、細川頼之はあえて守護たちの機嫌を損ねてでも旧寺社勢力に味方するという苦渋の決断をしたわけでした。
南禅寺の楼門が破却されると、禅宗の寺院たちは幕府への抗議のため一斉に京中から退き、寺院は空っぽになりました。頼之と春屋妙葩の関係もみるみる悪化していきます。
