日本人の物語00209【奈良】45代聖武天皇
今回から長屋王の治世に入ります。
長屋王は、高市皇子と御名部皇女(00176回参照)の間に産まれました。天武天皇の子たちの中でも、特に能力や人格を評価されていた高市皇子の子ですから、大きな期待を背負って養育されたものと思われます。
長屋王は養老5(721)年に右大臣に就任し、神亀元(724)年に左大臣に転じ、神亀6(729)年に没するまで左大臣の地位にありました。左大臣より上の役職は太政大臣しかなく、また太政大臣は通常は空席ですから、要するに長屋王こそが最高権力者だったというわけです。
養老6(722)年閏4月25日。「百万町歩(ひゃくまんちょうふ)開墾計画」が立案されます。開墾によって田畑を増やす計画です。おそらく長屋王が中心になって立案した政策でしょう。しかし、日々の食糧にすら困窮している農民にとって、開墾する余裕などありませんでした。結局開墾は計画倒れに終わってしまいます。
そこで政府は翌養老7(723)年4月17日、「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」を制定しました。開墾した土地は三代に限って私有地となる旨の法律です。
私有地となっても、農地である以上生産した作物の一部を税として納める必要はあるものの、国から付与される口分田と異なり、売却・相続の自由があります。時限的に私有を認めることで、公地公民制の原則を崩してまでも開墾を促そうとしたわけですが、さほどの効果はみられませんでした。三世一身法もまた、失敗に終わったのです。
長屋王が土地政策に苦戦している中、藤原氏は着実に成果を上げていきます。といっても、藤原四子ではなく、彼らの妹にして皇太子妃である光明子の功績です。養老7(723)年、光明子は興福寺の中に、悲田院(ひでんいん)・施薬院(せやくいん)を設置しました。
悲田院とは孤児や貧民を保護する施設で、施薬院とは病人を治療する施設です。
光明子といえば、皇后である以上に社会事業家といったイメージがありますね。こうした社会福祉事業は、藤原氏の氏寺である興福寺に設置され、あくまで私的な営みとして行われたようです。光明子がどんな思いでこれらの福祉事業を行っていたのか分かりませんが、光明子の、ひいては藤原氏の名声が高まるのに大いに寄与したことでしょう。
さて、神亀元(724)年2月4日。元正天皇が譲位し、皇太子の首皇子が即位しました。聖武天皇です。
一族の娘が天皇の妃となったわけですから、藤原氏の権力が増したように思われますが、同日付けで長屋王は右大臣から左大臣に昇進しています。藤原氏と長屋王の権力は伯仲しており、もはや衝突は避けられない状況です。
