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日本人の物語01260【室町/義満期】応永の乱 了俊始末

今川了俊ほど、大活躍したのに評価が得られなかった人も珍しいですね。

 応永の乱は終結したものの、その関係者の始末については長きに渡る暗闘がありました。
 鎌倉公方満兼についてはお咎めなしで決着したものの、問題は「今川了俊が満兼を炊きつけたらしい」という情報が入ってきたことでした。了俊は九州探題を解任された後、遠江・駿河半国の守護となっていましたが、九州平定を主導したにもかかわらず1.5ヶ国しかもらえなかったことに強い不満を抱いていましたから、反逆する動機は十分です。それに駿河といえば鎌倉に程近いですから、満兼とは頻繁に会う機会があったでしょう。
 応永7(1400)年1月11日。幕府は上杉憲定に対し、今川了俊討伐令を発出しました。鎌倉公方足利満兼でも関東管領上杉朝宗でもなく、上杉憲定に出されているのが面白いですね。幕府は鎌倉公方も関東管領も信頼していなかったように見受けられます。
 命を受けた憲定はいつまで経っても了俊を討とうとせず、了俊に降伏勧告して穏便に解決しようとしました。了俊は説得に応じ、7月に降伏を決めました。
 ところが了俊は降伏する旨を通告したものの、9月2日に次男を上洛させただけで、本人が上洛して弁明しようという姿勢を見せませんでした。誠意がみられないとのことで、幕府は再度の討伐令を出します。
 10月にはやっと了俊本人が上洛して罪を詫び、甥の泰範や上杉憲定らの助命嘆願もあって、遂に「お咎めなし」との判断が下りました。
 ところが了俊の悲劇はここから始まりました。了俊は遠江と駿河半国を領していたのですが、泰範は助命嘆願してあげた謝礼として駿河半国を要求してきたのです。これは了俊にとってあまりの仕打ちでした。
 そもそも了俊は兄・範氏に配慮して、駿河半国を範氏の子・氏家(うじいえ)に譲ってあげたという経緯があります。その氏家が死去したため、弟の泰範が駿河半国を継いだわけです。つまり駿河国は、了俊と泰範が半分ずつ統治していたのですが、それは了俊の思いやりによるものだったのです。
 にもかかわらず、泰範はぶしつけにも残り半国を要求し、立場の弱い了俊は断り切れず、これを譲ってしまいました。
 さらに了俊は、養子の仲秋に遠江守護職を譲って堀越(静岡県伊豆の国市)で余生を過ごすこととなりました。ところが了俊の死後、泰範は幕府に掛け合って仲秋の遠江守護職をも奪ってしまいました。詳細は不明ですが、恐らく了俊・仲秋父子(仲秋は了俊の弟ですが養子縁組しています)の反逆未遂を理由に申請したのでしょう。
 こうして今川泰範は了俊たちから領地を奪い取ることで、駿河・遠江2ヶ国を領する守護大名となりました。この泰範の5世孫が有名な今川義元に当たります。

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