日本人の物語01474【室町/西国/大乱前夜】畠山持国死す
例によって畠山家の家督問題についてはしつこいくらいに復習しておきます。
享徳4(1455)年3月26日。政界の重鎮・畠山持国が死去しました。
これまで説明してきたとおり、畠山家では義就と弥三郎が家督を争っており、将軍義政は
・文安5(1448)年11月: 義就に謁見を許し「義夏」の名を与える
・享徳3(1454)年8月: 弥三郎に謁見を許し家督継承を認める
・享徳3(1454)年12月: 義就に謁見を許し家督継承を認める
といった具合にコロコロと態度を変えていました。
このたび、義就を支持する持国が死去したわけですから、苦渋をなめてきた弥三郎にとっては大いなるチャンスです。弥三郎は管領・細川勝元に庇護を求め、家督への復帰を虎視眈々と狙っていました。
しかし、細川勝元には公然と弥三郎を庇護できない理由がありました。岳父たる山名宗全が大きな不祥事を起こし、一時は義政から討伐令まで出されていたのを必死に嘆願し、どうにか謹慎刑に落ち着いたところです。勝元としては更なる嘆願を行い、宗全の赦免を勝ち取らなければなりません。ここで目立つ行動をして、敵対勢力に格好の機会を与えるわけにいかなかったのです。
さて、山名宗全が謹慎中なのをいいことに、この機に播磨国内の権益を獲得しようと考えたのが赤松則尚でした。則尚は享徳4(1455)年春頃に播磨で挙兵し、山名軍から所領を奪おうと武力に訴えましたが、居城の檀徳山城(だんとくさんじょう:兵庫県太子町)を落とされ、備前国へと敗走しました。さらに山名軍の追撃を受け、5月12日に鹿久居島(かくいじま:岡山県備前市)において一族と共に自害しました。
勝元としては、謹慎中の宗全には大人しくしていて欲しかったでしょう。いくら赤松則尚が不法に攻めてきたとはいえ、謹慎中ならば幕府に訴え出て平和的に解決するのが筋です。撃退のみならず追撃までしてしまったわけで、宗全赦免は遠のいたといえます。
一方、父の死に危機感を覚えていた畠山義就としては、謹慎中の宗全が目立つ行動で再び将軍の怒りを受けたことはありがたいことでした。7月、今こそ好機とばかりに畠山義就は大和に潜伏する弥三郎を討つべく出陣しました。弥三郎軍を蹴散らし、8月には弥三郎を匿う筒井順永と箸尾宗信(はしおむねのぶ:?~1467)をも破り、弥三郎派の中心人物であった成身院光宣を鬼薗山城から敗走させることに成功しました。勝元は、自らが庇護する弥三郎派がこれほどの打撃を受けたのに、黙って見ていることしかできませんでした。宗全がやり過ぎたせいでしょう。
しかし勝元も、政敵を葬るべく動いてはいます。康正元(1455)年12月13日には、赤松則尚が不法に決起したことに連座して、赤松庶流の有馬元家が責任を取って出家遁世しました。これは勝元が働きかけた結果だと思われます。宗全も喜んだでしょう。
兵庫県太子町は聖徳太子に与えられた領地だったからこういう地名になったのだそうです。
