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日本人の物語01598【室町/西国/応仁の乱】長期化の原因

10年以上続いた戦争ですから、日本史上第二位ということになりますね(一位は享徳の乱)。いや、よく考えたら佐竹の乱は100年近く続いてますからそれが一位かもしれません。

 応仁の乱終結まで描いてきましたが、ここで乱の原因をもう一度考えるとともに、後世への影響を見ていきましょう。
 乱の原因はあまりに複層的で、一言で表すことはできません。原因として
①畠山家の家督争い②斯波家の家督争い③細川と山名の主導権争い④足利将軍家の家督争い
の4点が挙げられますが、これはあくまで最初に乱が勃発した原因であり、これ以降にも様々な対立構造が乱を長期化させました。
 この戦乱の中にどのような対立構造があったかをまとめてみましょう。
①守護・守護代の家督争い
 守護については斯波家・畠山家・京極家・富樫家・六角家が、守護代については多賀家・織田家が内紛を起こしています。
②統治権をめぐる争い
 ・幕政の主導権をめぐる細川VS山名の争い
 ・北九州の貿易利権をめぐる細川VS大内の争い
 ・播磨・備前・美作の領有権をめぐる山名VS赤松の争い
 ・近江の領有権をめぐる京極VS六角の争い
 ・大和の領有権をめぐる経覚VS光宣・筒井氏の争い
 ざっと見ただけでもこれだけ多くの対立構造があります。これらが全て詰め込まれたものが応仁の乱なのです。
 同時代の人にとってもこの対立構造はよく分からなかったらしく、大乗院尋尊は日記で畠山家の家督争いなどに触れつつ
「いくら頭をひねってもあの大乱が起こった原因がわからない」
と記しています。これが決定打といえる原因が思いつかなかったのでしょう。
 一方、物語要素の強い『応仁記』においては、幕府の重臣たちの身勝手で驕慢な振る舞いが戦乱の原因だとしています。『応仁記』は
「天下は破れば破れよ。世間は滅びば滅びよ。人はともあれ我が身さえ富貴ならよい(などと思っている者がいる)」
という有名な言葉で当時の幕府高官たちの風潮を表しており、
「世間は飢餓地獄であるのに、花見や上卿など晴の儀式が何度も行われた」
と述べています。「民衆はどうなっても良い」という利己的な考えが、戦乱を長期化させたと主張したいようです。

10年もダラダラ続き、英雄不在、原因もいまいちすっきりせず、どちらが勝ったかも曖昧。全く盛り上がり気欠ける面白くない戦乱ですが、見方を変えると実に面白い気がします。

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