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日本人の物語00952【南北朝初期】塩冶判官讒死 追跡

実は下書きは既にだいぶ先まで書いておりまして、目次欄にはだいぶ先まで今後の予定が書かれております。貯金がたっぷりあるので、あと1年くらい何も書かずに過ごしても大丈夫です。しかしここから先がなかなか進まない・・・。

 桃井直常たちは京へ帰っていきましたが、一方、山名時氏とその郎党たちは山陽道を走っていました。
 山崎宝寺(京都府大山崎町)の前を通りかかったところで、突然後ろから、
「お待ちください。執事殿(高師直のこと)からお手紙です」
と呼びかけて来る者がありました。振り返ると5騎ほどの兵がいます。山名たちが
「一体何事だろう」
と馬を止めると、相手は、
「あまりに激しく走ってきましたので、息が詰まってしまいました」
と言って、なかなか用件を言おうとしません。山名の郎党たちが相手に近寄っていくと、相手はにっこり笑って、
「実は執事の使いではありません。私は塩冶家の身内の者で、ここで主人のために命を捨てようと思ったのです」
と言うが早いか、太刀を抜いて突然斬りかかってきました。5騎の兵たちは、山名勢3人に手傷を負わせ、斬り合いの末に死んでいきました。
 思わぬ騙し討ちで時間を取られてしまった山名たちは先を急ぎます。
 湊川(兵庫県神戸市)まで来たところで、山名時氏は
「馬が疲れてしまったようだ。今日はこれ以上追跡できないだろう。一晩馬を休めよう」
と言って、そこに留まりました。
 しかし、時氏の子・山名師義(やまなもろよし:1328~1376)が、
「休んでいては敵を追いつめて討つことなどできない。強い馬を持つ者は私に同行せよ。父には知らせず、今夜のうちに敵を追いつめて道中で討ち取ろうではないか」
と言って、僅か12騎を集めて夜中に湊川を出発していきました。
 師義らは湊川から加古川(兵庫県加古川市)まで一気に駆け抜けて、川の向こう岸を見渡すと、まさに塩冶たちと思われる騎馬武者が30騎ほど見えました。
 師義は馬を降りて、
「そこの馬を急がせておられるのは塩冶殿とお見受けする。将軍を敵に回して一体どこまで逃げられようか。潔く討ち死にして、この地に名を残されよ」
と呼びかけました。これを聞いた塩冶方の兵たちは、大将である高貞を逃がすため山名勢と戦う覚悟を決めました。

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